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「通り抜け無用」で通り抜けが知れ 柄井川柳「誹風柳多留」八篇③

 寺子屋によって人々が文字が読めるようになった。そこで江戸時代は本の出版も盛んになった。それまでの「本」というのは、筆で書き写してできたものだった。書き写すから写し間違えもある。写した人が勝手に文章を変えているかもわからない。どんなに有名な作品でも、「いやいや、こっちの表現の方がいいはずだ」と思って実行する人はいる。だから昔の(平安時代などの)本は、本によって文章が違うことが多い。
 江戸っ子は文字が読めるから、大量に本が読まれる。そのために大量生産のできる印刷技術が発展した。
 当時の印刷は木版印刷。木版画の技術が発展したから浮世絵版画も発展した。人々が文字が読めるから、文字を使った看板が増える。町の中にも文字が増え、瓦版売りという職業も生まれる(今の新聞)。文字を読むだけでなく、文字を書くこともできるので、川柳を作ることもでき、川柳を書いてコンクールに応募することもできる。
 川柳は、一人で楽しむ俳句や和歌、狂歌と違って、コンクールに出すために作るものだ(賞品、賞金が出る)。コンクールの審査員で有名だったのが、柄井川柳。柄井川柳の選んだ川柳の作品集「誹風柳多留」が「本」として毎年出版された。そこから「川柳」という言葉が生まれている。


590 通りぬけ無用で通りぬけが知れ  思ひこそすれ思ひこそすれ
「通りぬけ無用」で通り抜けが知れ
 「通りぬけ無用」の看板がある道路。書いてあるから通り抜けできるんだとわかる。文字が読めない人にとってはちんぷんかんぷん。読める人が多いから文字の看板もある。

616 二人して出すとは けちな出合であい茶屋  ほしいことかなほしいことかな
 二人で割り勘で料金を出す。お金を払う場所は出合茶屋。道ならぬ男女が出会うラブホテルだ。そこで割り勘とは、けちな話。

623 伯母おばと いふかとしかる後の妻  思ひこそすれ思ひこそすれ
「また伯母と言うか!」と叱る後の妻
 後妻が子どもに、「おばさんと言わずに、お母さんと言いなさい」と言っている。妻が亡くなったら、その妹を後妻に迎えることも多かった(姉の場合もある)。

664 兄弟の中へ寝るから中納言  手がら次第に手がら次第に
 中納言、在原行平(ありわらのゆきひら)は、須磨へ流されたときに、松風、村雨姉妹とつきあった。平安時代の在原行平のことも、本や芝居で江戸の人は知っていた。江戸時代は、姉妹も「兄弟」と書いていた。行平は、姉妹と寝るときは、真ん中に寝たから中納言だ、というしょうもないシャレ。


691 ぜん九年 ひつぱり合てあって一首よみ  うき世なりけりうき世なりけり
 前九年の役で、逃げる安倍貞任(あべのさだとう)に、弓矢の矢を引っ張りながら、源義家(みなもとのよしいえ)が「ころものたては ほころびにけり」と七七を詠むと、貞任は「年をし糸の乱れの苦しさに」と五七五の上の句を詠んだ。そういう話を江戸っ子は本や芝居などで、よく知っていた。
 有名な源氏の大将・源義家だけでなく安倍貞任も知っている。「伊勢物語」の主人公といわれる有名な在原業平だけでなく在原行平も知っている。江戸の庶民は現代の大学生よりも雑学に詳しかったようだ。


699 ばかり洗って仕廻うしまう関相撲  手がら次第に手がら次第に
足ばかり洗ってしまう関相撲
 足だけ汚れているので、足だけを洗うのは相撲の大関だ。大関の相撲は、倒されることがない強さだというのだ。今は「横綱」が何人もいるけど、当時は大関が一番強かった。


705 絵が無いと男女の知れぬ百人首ひゃくにんしゅ  手がら次第に手がら次第に
 百人一首を川柳では五音で百人首(ひゃ・く・に・ん・しゅ)という。それだけ庶民にも馴染み深い百人一首だが、文字だけではだれが作者かわからない。男か女かもわからない。


718 小べんを すわつてしろと ぜげんいひ  けんどんな事けんどんな事
小便を「座ってしろ」と女衒言い 
 女衒(ぜげん)は娘を売る家と遊女屋との仲介業者。田舎から連れてきた娘に、「小便は座ってしろ」と言っている。田舎では女の人も立ち小便だった。男は便器に向かってするが、女性は便器にお尻を向けて立ち小便をしていた。


 「誹風柳多留」八篇の作品紹介は、ここまで。

 「誹風柳多留」は、今はなくなった社会思想社の「誹風柳多留」を元本としている。十篇まであるので、全て紹介したいが、今年はこれで終わり。年の瀬を江戸時代の世界に遊び、今の浮世をしばし忘れて夢をみていよう。


時代世話十一_20211007183950

 見出し画像は、山東京伝(さんとうきょうでん)作「時代世話二挺皷」。藤原秀郷によって平将門の首が切られた場面。原本は墨一色の印刷なので、真っ赤な血しぶきはあがらない(私が勝手に着色)けど……ちょっとちょっとの画像。絵師は喜多川行麿だが、京伝自身も北尾派の浮世絵師、北尾政演(きたおまさのぶ)であるから、構図などの指示をしたものと思われる。首なし画面は京伝自身のデザインだろう。京伝は、後期江戸文学を代表する作家でもある。川柳といえば柄井川柳「誹風柳多留」であるように、後期江戸文学といえば山東京伝である。



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