百人の中へ一声「ほととぎす」 柄井川柳「誹風柳多留」九篇②
江戸時代に柄井川柳の選んだ川柳を集めた「誹風柳多留」9篇の2回目。
181 日ぐれから かこわれへ来る よ入道 あきはてにけりあきはてにけり
日暮れ、夕暮れ時から囲われの女の元にやって来る夜入道。坊主が女のところにやってきたのだろう。夜やってくる坊主を夜入道といっている。
「よ入道」はへマムシヨ入道(あるいはへマムシ入道)を指している。江戸時代のへのへのもへじ(あるいは、へのへのもへの)だ。カタカナの「へマムシヨ」で顔を描き、漢字の入道で身体を描く。耳になる「ヨ」がないと、「へマムシ入道」になる。
「道」はかなりくずした草書体の漢字なので、現在では書けない人がほとんど。「道」の書き方を覚えたらすぐに描ける。一度書いてみよう。
188 百人の中へ一声ほととぎす しほらしい事しほらしい事
ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞのこれる (百人一首)
ほととぎすが鳴いた方角を見ても、姿は見えず、ただ有明の月が照っている。
百人一首の中にほととぎすの歌は一首だけだ。それを「一声」といっている。「へえぇ」。そう思えるのも、江戸の人々が百人一首をよく知っていたから。百人一首でかるた遊びもよくしていた。文字、ひらがなが読めるから、かるたもできる。
「テッペンカケタカ」と鳴く、ほととぎすは、いたるとこにいたのだろう。この声を、平安の昔から日本人は歌にしてきた。
391 茶ののめる庵は みやこの辰巳也 かぎりない事かぎりない事
お茶が飲める庵は都の辰巳の方向にある。
こちらも百人一首の「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山とひとはいふなり」をふまえている。
私の庵は都の辰巳の方向にあり、しっかりと住んでいる。住んでいる宇治山を指して「憂し」山だから、この世がいやになって(憂しと思って)、こんな所に住んでいるのだと人は言うけれども。
「たつみ(辰巳、巽)」は東南の方角。「うぢ山」の宇治は茶の産地である。百人一首の歌の作者は喜撰法師。「喜撰」は江戸時代の茶の銘柄。これだけお茶に縁がある。
「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という有名な狂歌の「上喜撰」は、上等の喜撰のこと。お茶の銘柄として有名だった。「上喜撰」と、ペリーの乗ってきた黒船、「蒸気船」(4隻やってきた)をかけている。
文字が読めて雑学の知識がある。それが江戸の一般的庶民の姿だった。
294 歌がるた 見物をする はづかしさ たのもしい事たのもしい事
歌がるたは百人一首。文字が読めないから見物をしている。それが恥ずかしい。江戸の町人は、ほとんどの人が文字(かな)が読めた。
「かるた」は「歌留多、加留多、骨牌」と漢字でも書かれるが、「カルタ」とも書かれる。カタカナで書かれることがあるのは、それは外来語だから。
ポルトガル語のcartaが語源で、それを聞いた日本人が「カルタ」というようになった。この言葉は英語のcardやドイツ語のkarteと同じような意味をもっている。カード(カルテ)のことだ。一緒に伝わったトランプとともに、日本のカルタができた。いろはガルタや花札、そして百人一首だ。こういうカードゲームが日本でできた。
日本人は文字が読めるから、文字を使ったカードゲームができ、ゲームをするから人々はますます文字を覚える。文字を覚え始めた子どもたちも同じだ。百人一首じゃなくても、普通のカルタ(あいうえお順になったそれは「いろはガルタ」と呼ばれる)をすれば、あっという間に言葉を覚える。読めるようになる。中身も覚える。楽しみながら学べばすぐに身についてくる。
正月に百人一首をすることがあっただろうか。コロナ禍に濃厚接触するゲームは御法度だが、家族でするぶんにはいいだろう。家庭に百人一首はあるけれど、ほこりをかぶったままになっていることも多いだろう。正月に、百人一首で遊んだ人も遊ばなかった人も、江戸の人々も親しんだ百人一首に触れてみてはどうだろう。
ちなみに、当時は百人一首のゲームは女の人が遊んでいることが多く、その輪の中に呼んでもらえる男の人はモテモテでラッキーだった。
見出し画像は、山東京伝の黄表紙「御存商売物」。「御存商売物」には、黄表紙はじめ、いろいろな本が登場人物として出てくる。画面は、時代がかってはいるけれども重鎮である書籍、源氏物語と唐詩選が擬人化されている。
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