年の瀬に考えたコロナとがんと生命の起源について

FACEBOOKである感染症専門家の方が最近顕著なコロナ患者の経過について書いておられた。

実に静かだ。
これがコロナの重症化から最期のイメージ。(中略)
患者に苦しいか?と聞くが、いやそんなに苦しくないという。意識もはっきりしているのだ。胸が痛いとも言わない。それほど咳き込むわけでもなく、ゼーゼーヒューヒューもなく静かだ。全員ではないもののそれほどハーハードキドキもしていない。至って静かなのに酸素のモニターだけ下がる。酸素モニターを見なければ重くなっていると気づかない。患者は静的だ。
ここで人工呼吸器の選択をしない場合、静かにやがて呼吸が止まる。
これが私の経験してきたコロナの最期だ。

この感じ、わかる気がする。「患者は苦しんでいないのに酸素モニターだけが下がって死に至る」というところ。


私はがん患者であるが、なんとなくがん細胞と似ている気がした。がん細胞というのは嫌気性で酸素代謝をしない。がん増殖の原因は酸素の代謝工場であるミトコンドリアの不具合という人もいるくらいだし、ミトコンドリアを鍛えることががんや糖尿病の改善につながるという意見もある。


そもそも、動物細胞というのは、地球上が酸素に覆われ始めた頃、その環境の中で生き延びるために、酸素代謝できるミトコンドリアの元になったバクテリアが真核細胞に入り込むことで生まれた。つまり、酸素代謝できるということはこの地球上で生きる動物の最も根源的な性質であり、嫌気性のがん細胞は言ってみれば、そういう動物の生きようとする性質に根源から背くものだ。だからこそ、がんは死に向かう存在として恐れられるのかもしれない。


だから、この投稿でコロナに「静かに酸素モニターだけが下がる」という性質があると知った時、まるでがんのようだと思った。
がんも激烈な症状が出るのは極々末期であり、治療の副作用がなければ、それまで静かに静かにその人を死に至らしめるのである。


当初から、コロナの様々な性質を見るにつけ、免疫系への反応など生命体の「生きる」という根源的な部分への挑戦のような気がしていた。
もちろん、これも自分に都合の良い情報だけを継ぎ合わせた上での発想なのかもしれない。しかし、近未来SF的なコンテンツを浴び続けた私のような世代は、この「2020」というビジュアル的にも近未来的な数字が並ぶ時代の年の瀬、まるでSFのようなコロナパンデミックという状況に、「人類という生命体の転機」なんてものをつい妄想してしまうのである。


医学が進歩しても、がん患者は一向に減らないどころか増え続けている。「人新世の資本論」じゃないけれど、私たち人類が作り上げた世界は、地球環境だけでなく、自らの種の命の根源的な部分をも蝕み始めているのではないか。がんが増えているということを私はある意味、人類へのそういう警告だと捉えているし、コロナも様々な意味で、私たちへの警告を携えていると思う。


「コロナと闘う」とか言う前に「コロナを理解」しなくてはならない。

ただ、それは神ではない私たちにとって、なかなかに難しい。しかし、私たちは常に理解し難い他人を受け入れるという課題に向き合って生きているのだ。コロナもそういうものだろう。

そんなことを考える2020の大晦日なのである。

ただいまお手上げ状態脱出画策中。経済、乳がん、住宅ローン、とりあえず、お金を稼いでゆったり暮らせる状態を作るのが目標。乳がんは特に症状はなく、金欠だし、標準治療してないのですが元気です。