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8年後わたしは何をしているだろうかー『2020年6月30日にまたここで会おう』瀧本哲史(星海社新書)

瀧本哲史というひとをわたしは知らなかった。ライターの先輩である大越裕さんがライティングを担当し、今とても売れまくっているので興味をもって読んだ。

この本は2012年6月30日に29歳以下の若者300人以下に向けて東京大学のホールで行われた講義録。文字で読んでいるのにその場にいるようなライブ感があって一気に読んだ。

瀧本哲史氏は、創業間もない企業に投資をして応援するエンジェル投資家であり、これからの未来を担う若者に強いメッセージを飛ばす教育者である。

40歳になってもなお、自分のことしか考えられないわたしは、彼が当たり前のように「次世代」へ惜しみない支援をしている様子にただただ圧倒された。この講義をしているときの瀧本氏は40歳で今のわたしと同じ。だから、なおさらだ。見ているところが違いすぎる。器が違いすぎる。

講義は8年後、同じ日に同じ場所にみんなで集まって「みんなで答え合わせ」をしようと締めくくられる。彼から種を受け取った若者たちが8年後、世の中をどんなふうに変えられたか、8年をどう過ごしたか。その日に当たるのが本のタイトルになった2020年6月30日だ。でも瀧本氏は2019年8月10日に病気で亡くなってしまう。

本の中でもっとも強烈に印象に残ったのが、なぜ日本を良くしたいのかという質問に「自分自身を幸せにすることに関しては、じつは達成度150%、やったーみたいな感じですので、あまり関心がありません」と答えていたところだった。「なので、もうちょっと自分のリソースを最大限活用するのにどこがいいかな? なるべくインパクトがあって、すごく困っているところが大逆転していちばん良くなるとか、とってもいいじゃないですか。」と続くのだけど、もうそのあとの言葉が頭に入らないくらい衝撃を受けた。

自分自身を幸せにするというのは、わたしの最近のテーマだったから、自分の幸せ達成度150%って言いきったことに、興奮した。ものすごくかっこいいと思った。でも、その達成のために、わたしは瀧本氏とは逆にどんどんケチくさい方向へ向かいつつある。自分の心と体と時間を優先して、気が進まない人の誘いや無理な仕事を断る。お金や時間を、人のためではなく自分のために使おうとして、ケチケチ貯めこんでいる。コロナ禍で困っている人たちがたくさんいる。でも自分もどうなるかわからないから、目を伏せて、自分だけを、守ろうとしてしまう。上の世代の人たちは惜しみなくわたしにいろいろなものを与えてくれたのに、わたしはまだ、下っ端の後輩気分から抜け出せない。

自分の中に、根本的に他人を信じていないところがあると思った。人から頼まれて動くことはよくあるけれど、常に、自分が大きな損をしないように線を引いている。自分が損にならない範囲で力は貸すけれども、人の力は当てにしない。自分がしょうもない若者だったから、若い人に期待をもてないのかもしれない。届く気がしない。どうせ伝わらないだろうと思ってしまう。上の世代の人にも、同世代にももしかしたら同じことを思っているかもしれない。

ああ、でも、違う。たぶん逆だ。人に期待しすぎるんだ。10人に伝えて10人ともにわかってもらいたいと期待するから、がっかりするんだ。100人に伝えて1人わかってくれる人が出たら儲けもの、くらいが実態だし、そう思うべきなのかもしれない。そうわかったらわかったで、そんなしんどいことは、したくないなあって思う自分がいる。だって100人に伝える労力って大変なのに、1人にわかってもらえるかどうかなんて、そんなことできないよ。失敗もしたくないし、自分の幸福度も減らしたくない。

自分の幸せ達成度150%になったら、ケチくさくなくなるんだろうか。90%とか100%とかではなく50%。万が一、失敗してなくなっても大丈夫、という余裕が50%くらいある状態。じゃあ、とりあえず150%を達成するまでは自分のことだけ考えていいかな……。

なんてことを思いながら、わたしは本当は、薄々わかっている。ケチくさい気持ちがなくなって、自分以外の人を惜しみなく応援できるような人にならないと、幸福度150%なんて達成できないんじゃないかなってことを。

8年後、わたしは48歳だ。まだ生きていたとしたら、今よりはケチケチしていない人になっていたい。

ここまで書いて、ふいに、内田樹氏が書いた才能は天からの贈与(ギフト)であるという内容の文章を思い出した。初めて読んだときは、ふーん、天才は大変だなあ……と他人事だったけれど、年を重ね、世間が見えてきて、思い通りにならない外部条件に苦しめられている人たちがたくさんいることを知り、ただの凡人のわたしですら、今手にしているものや力のほとんどが、わたしだけのものではなくて、たまたま恵まれた環境に生まれ育って、たまたまトラブルもなくうまくいって、たまたま能力を延ばす努力ができる環境があって、たまたまそれを活用できているというだけだということがわかってきた。わたしの幸福の多くは贈与によって成り立っている。

贈与されたものは次の人に贈与しなくてはならないと内田氏は言う。そうしないと才能は枯渇する。生物的に生きながらえても、人間的に死んでしまう。それはなぜか。一見、宗教のような倫理のような問題が、とても合理的な分析に締めくくられる。

自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。
「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
内田樹研究室『才能の枯渇について』2010-12-26

自分のために使った場合、その才能は磨かれることもなく、なぜそれができているのかもわからず、自分の血肉にならず、ただ枯渇する。できていたことができなくなって、それを取り戻すすべもなく、自分の役にも、人の役にも立つことができない未来が来る。それは、まったく幸福とは程遠い未来だろうな。

経済を回せとよく言うけれど、たぶん、才能も回さなくてはいけない。瀧本氏には到底かなわないけれども、自分の幸福のために、という利己的な動機なら、少しはわたしもやれるかもしれない。


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