見出し画像

「きれい」を無邪気に楽しみたい

42歳になった自分の容姿と心の折り合いがつかない。普通に生きているだけで太ってくるし、アプリで加工しないと顔がぼよーんとしてるし、可愛らしい服も似合わなくなるし、白髪が増えてくるし。

どうやって受け入れたらいいのだろう。自分大好きなうえに、時代のルッキズム(外見至上主義)の呪いにどっぷり浸かって、その呪いも振りまいて生きてきたツケを、どうやって払えばいいのかわからない。

話は少し変わるけれど、いや変わらないんだけど、切った髪を医療用ウィッグのために寄付するヘアドネーションという行為がある。治療のために髪を失った人が無料でウィッグを手に入れられるようにするためだから、どこからどう見ても善意しかない行為だとわたしは思っていた。でも、本当は、髪がなくても誰もつらい思いをしない世の中になるのが理想なんだと美容師さんが語っている記事を読んで、ハッとした。

髪がなくても本当は生きるのに困らないはずだ。なのに、社会が髪があることを要請する。もちろんウィッグをしたい人もいるだろうけれど、まずは、髪があってもなくても誰も気にしない社会になって、そのうえで、ウィッグをしたいかしたくないかを選べるほうがいい。

そんなこと、今まで考えたこともなかった。

わたしが子どものとき、「ハゲ」は笑ってもいいギャグだった。「ブス」とか「デブ」とか「ブサイク」とかも同じ。子ども同士の低レベルの言い合いではなくて、テレビの中で、大人たちが、そうやって人の容姿を笑っていた。笑われた人が怒ることもなかった。怒ってはいけなかった。きれいな女優さんでさえも、ちょっとだけ鼻が目立っていたり、目が離れていたりしたら、それをネタにからかわれたりしていた。

おぞましい世界だったよね。…だったよね、と、過去形にしたけど、今もまだ続いている。けれど、わたしは、何が何でもそういうのを過去形にしたい。

かといって、美しい人を見ると美しいなあって眺めたいし、おしゃれを工夫している人とか、健康的に筋肉がついている人とか、いいなあって言いたいし。自分もできればきれいでいたい。これはルッキズムなのか、いやいや、歌がうまい人素敵とか、スポーツが得意な人かっこいいとか、そういうのと同じ感じでとらえられたら「至上主義」にはならない気がする。どうだろ。きれいが上達したら楽しいと思う人だけが楽しむ遊び、みたいな。

コロナ禍で人に会わないから服もバッグも何もほしくなくなっていた。ウェブ会議は解像度が低い古いカメラを使っていたので、ファンデーションも塗らなくなった。美容室に行くのも面倒で、伸びた髪をくくって何とかやりすごしていた。それが楽だし、それでいいと思っていた。外見へのこだわりから解放された、と思っていた。

でも、そんな中、ときどき人と会って集合写真を撮ったりすると、自分の姿が客観的に見えて「ここにいる奇妙な女は誰だ…」と衝撃を受ける。鏡で見る自分は正面のいい角度で、きりっとした顔しか見ないからだろう。自業自得なのに、ひどく落ち込んでしまう。やっぱり、きれいじゃない自分は嫌だ。

今日もダメージを受ける写真を見てしまった。1か月前の髪ぼさぼさのときの写真だ。それと同時に、土曜日にポートレートを撮ってもらったときの速報写真も見せてもらったので救われた。こちらは、前から写真撮ってもらうことは決めてたので、1週間前に美容室に行って、ぼさぼさの髪を切ってもらって、せっかくいい機会だからちょっとは引き締めようと思って運動がんばって、似合う服って何だろうって考えて服も選んだ。

当日は、まっさらな軽い気持ちでいて、何が写ってもそのまま受け入れようと思った。20代の後半のときにポートレート遊びをしていたときとは違う表情じゃないと、写真に似合わないだろうと考えた。でも、42歳の表情って一体何なのかがわからない。だから、写ったものを受け入れようと思った。そのまま、そのままって思っていた。

撮ってくれたsizeさんは20代後半のときに写真趣味つながりで、作品を通じて知り合った人で、いつか撮ってもらいたいなと思っていたカメラマンのひとりで、SNSでずっとつながっていて、何年越しかに謎の瞬発力で、撮影が実現した。20代のデビュー前のあれやこれやのとっちらかった時代を知ってる人と会うと、いろんな力が抜ける。なんかもう知られてるからしょうがないな、みたいな。それはとてもくすぐったくて心地よい、あきらめの感覚。

20代には戻れないし、戻りたくないし、あれから時間は進んだし変わったこともあるけど、変わらないものもたくさんあるのだと思った。あのわたしが、理系ライターとか名乗って、社会人してるの、ほんといまだに信じられないわ、うけるわ、とか思ったりして。

photo : size

sizeさんにきれいに写してもらった写真を見て、もってないものを嘆いたり減点で採点したりするのは、そろそろやめられそうな気がした。「きれいでいたいな」って思っていたら、好きな自分でいられそうな気がした。少なくとも、写真に写った自分を見て、こんなはずじゃないのにと自己嫌悪しなくて済みそうだ。

しかし、それってまだまだルッキズムにとらわれているのかなあ。まあ、ぼちぼちね、呪いは少しずつ解いていくよ。

photo: size

ところで、ウェブカメラを新調したのです。新しいウェブカメラでYouTube更新して、今まで解像度悪かったからなんかごまかせていたいろいろが、ごまかせなくなって、「こんなブスだったのか。だまされた。もう見ません」とかコメントついたらどうしようと妄想して(自意識過剰病)、いやいやそんなコメントついたら、顔目当てで見てた人が減って大歓迎って思おう!って決意した。被害妄想がひどい。マイナーチャンネルで誰もそんなこと言わないと思うけど。

で、そんな脳内ひとり自意識過剰被害妄想劇を広げていたら、ふいに、容姿の悪口を直接言ってくる人の言葉なんて、聞く必要性は、まったくないじゃないか、と悟ったのですよ!昔の自分なら悟れなかった境地なんですよ!

なんで悟れたかというと、なんか今は、いい感じで、現実を知っていて、容姿の欠点を言われても、そりゃそうだろうって思えるからかもしれない。42歳だし、一般人だし、そんなに努力しているわけじゃないし。いろいろたるんでるし、日々に追われてだらしないことになっているし、なんというか、後ろ暗いことだらけで誇るものがない。何言われても、そうだねそのとおりだねって思えるし。

人の容姿の悪口を言う行為は明らかに間違っている。言われたことが本当のことだったとしても、言われたほうに、1ミリも非はない。容姿の悪口を言われた人が傷つくのではなく、言う人が軽蔑される世の中になってほしい。そうしようよ。

「きれい」を楽しみたい。ジャッジせず、ジャッジされず。自分を卑下したり欠点をあげつらったりせず。

追い立てられるように自己嫌悪に陥りながら「やらねば」と思うのではなく、今の自分をニュートラルに受け入れて、もっときれいになるためにどうしようかとワクワクしながら試行錯誤してみたい。

目の前に甘くて可愛いスイーツがあって、「わああ!」って思う、あの感じ。ときめき。期待感。そして食べたときの幸福感。そんなふうに、きれいを楽しみたい。小さな女の子が憧れのお姫様のドレスを買ってもらって、鏡の前でわああってなる感じ。そんなふうに一点の曇りもなく、きれいを楽しみたい。今はまだコンプレックスがチクチクする。

自分の「きれい」は喜んで、自分の「きれいじゃない」はジャッジしない。「きれいじゃない」を見つけたら、「きれい」になる工夫の余地があることを楽しみたい。のびしろ! そうしたら、これから先、どんどん年を取るごとに、工夫がたくさんできて、どんどんきれいを楽しめるようになる気がする。

photo:size

というわけで、きれいに撮ってもらうの、ほんと楽しい。全写真見てほしいわ。ポートレートの被写体の面白さ、全女子に味わってほしい。何なら、わたしが撮るわ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?