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【小説】最後のガンジス

 朝靄に包まれた川をボートが進んでいく。ガイドがボートをこぎながら、ガンジス川で沐浴すると、全ての罪が洗い流されるのだと説明してくれる。
 川岸には色とりどりのサリーをまとった女性たちが、まるでお風呂につかるように川の水を体にかけている。別の場所には上半身裸の青年たちが川の水で頭を洗ったり歯をみがいたりしている。座禅の姿勢で祈っている僧もいるし、洗濯している女性たちもいる。
 小春は、開けた口を閉めるのも忘れて、目の前の光景に圧倒されていた。インドというのは様々な人たちが住んでいて何でもありな国だとは聞いてはいた。が、知っているのと実際に目で見て肌で感じるのとは大違いだった。
 小春たちがインドに到着したのはおとといの夜だ。その日はすぐにホテルに泊まったが、昨日はサルナートという仏教の聖地を観光した。広々とした芝生に遺跡が点在していて、時間の流れが止まっているような場所だと小春は思った。そして、三日目の朝はガンジス川の観光から始まった。ここ、ガンジス川のすべてがごちゃまぜになっているカオス状態は、サルナートの雰囲気とまったく真逆だった。 
 小春は、一緒にボートに乗っている父と母の顔をそっとうかがった。母は少々潔癖症気味なところがある。そして父は生真面目だ。生活も祈りもいっしょくたになっているこの光景をどんなふうに受け止めているか、心配だった。
「あの煙、何ですか?」
 母が岸を指さしてガイドにたずねた。
「亡くなった人を焼いています。灰を川に流すのです」
 へえ、とうなずいている母の顔には嫌悪の表情はなかった。それが小春には意外だった。
「この聖なる川に帰ることがヒンズー教徒たちの願いなのです」
「宗教によっていろいろだなあ」
 父が言った。頑固な父までがこの光景を受け入れている。小春は、心の底からほっとした。
「ああ、インドに来たって感じがする」
 兄の夏夫がしみじみと言った。夏夫はかつて、この近くに半年も滞在して、地元の人間に間違えられるほどなじんでいたらしい。

■□■
 家族旅行の行先を強引にインドに決めてしまったのは夏夫だった。小春は反対した。インドと親たちの性格は相性が悪そうだと思ったからだ。それに兄は家族旅行にふさわしいと思って提案しているわけではなかった。単に自分が行きたいから言っているだけだ。
「インドなら家族旅行に、一緒に来てくれる?」
 と、小春は兄にたずねた。経験があてになるかどうかはともかく、夏夫がついてきてくれるかどうかは、今回の小春の計画において非常に重要なポイントだった。
「そうだなあ、インドなら行こうかな」
 夏夫がそのセリフが決め手になって、行先はインドに決定した。

 父を誘うのは簡単だ。昨年定年退職した父が、母と海外旅行に行くためにいろいろリサーチしていたことを小春は知っていた。母が行きたいと言えば、渡りに船とばかりに乗ってくる。
 問題は母だった。
 小春が、母から離婚を考えていることを聞かされたのは、先月のことだった。
 話がある、と呼び出したのは小春の方だったのに、ちょうどわたしも小春に話があったのよ、と母から打ち明けられたのだ。
「何でいまさら?」
 小春の第一声はこれだった。母は今年で六十歳だ。父は六十一歳。もう三十年以上は夫婦をやっている。長い年月の間にはいくつも行き違いがあっただろう。子どものことでケンカしている親を見たこともある。でも、それも乗り越えて、ようやく夫婦二人でのんびりできるというときに、どうして離婚なんてする必要があるのか、小春にはまったく理解できなかった。
「いまさらって何よ。どうせ、もうあと数年でくたばるんだから我慢しろってこと?」
「そんなこと言ってないよ。数年とか思ってない。お父さんにもお母さんにはあと二十年くらい生きてほしいよ。だからこそ、その二十年を夫婦仲良く一緒に過ごして欲しいんじゃない」
「誰と誰が仲良く一緒に暮らせるって?」
 お父さんとお母さんが……と言いかけた小春は、母ににらまれて口をつぐんだ。
「小春なんか、実家に帰ってきても、お父さんと話したら十秒もたたずにケンカになるじゃない」
 何も言い返せなかった。父はいつも偉そうに威張っていて、デリカシーがなく、触れられたくないことばかりずけずけと指摘してくる。それだけじゃない。世の中を見下し、自分以外の他人を軽蔑し、偏狭で融通がきかず、何もしない。テレビを見ていても文句ばかり言っている。一緒にいて楽しいと思ったことがない。
「あの人が退職してから、ずっと家にいるのよ。わたしはもう気が狂いそうなの。あんたは数か月に一度帰ってきて十秒でしょう? わたしは毎日二十四時間一緒にいるのよ。しかも死ぬまでそれが続くのよ」
 夫婦なんだから、いろいろあるだろうけど、そこはふたり助けあって……なんて一般論でおさまるような問題ではなさそうだった。
「あと二十年? 冗談じゃない。二十年我慢するくらいなら、お母さんさっさとあの世に行って、お父さんあんたたちに押し付けちゃうから」
「それは困る。無理」
 思わず言ってしまって、いや、違う、と小春はふたたび体勢を整える。違う違う。論点はそこではない。父の介護じゃなくて、夫婦仲良くしてもらいたいのだ。母が父に不満を抱いていることは知っていた。でもなぜか、離婚を考えているなんて思ったこともなかった。熟年離婚なんて言葉を聞いても、本当にそんなことがあるのかなあ……とピンとこなかったくらいだ。
「で、あんた、何か話あったんじゃないの?」
 と、母が言った。
「いや、別に、大したことじゃないの。お母さん最近どうしてるかなと思って」
 小春は慌てて答えた。こんな状態で、言えるわけがなかった。自分も離婚の相談をしようとしていたなんて。
 母と別れた小春はすぐに兄の一人暮らしの部屋を訪ねた。今思えば、自分はよっぽど動揺していたのだ。そうでなければ、一番に兄に相談に行ったりはしない。兄は、おそらく、この問題の相談相手としては世界で一番ふさわしくない。
 案の定、兄の第一声は、「別にいいんじゃない?」だった。
「父さんは知ってるの?」
「知らないと思う」
 インターネットを使って、一生懸命海外旅行のツアーを調べていた父を思い出す。
――退職したら奥さんを旅行にでも連れてってあげてくださいって若い子に言われてさ。まあそのくらいはしてやってもいいかなと思ったんだ。
 父のセリフを思い出し、小春は身震いした。連れていってあげるとか、してやってもいいとか、そういうレベルではない。現状認識のずれがはなはだしい。
 そこで小春は考えたのだ。一緒に旅行に行って非日常感を味わえば、ふたりの関係も変わるかもしれない。少なくとも思いつめている母の気持ちは晴れるかもしれない。
 父とふたり旅行なら乗ってこない母も、普段はほとんど連絡を寄こさない兄が参加する家族旅行となればその気になるだろう、という小春の読みは当たった。
 現在三十七歳の兄は、独身で、音楽を生業にしている。といっても、楽器を演奏するわけでも歌を歌うわけでもない。一人暮らしの部屋にこもってパソコンを一日中いじっている。楽曲提供という仕事らしいが、そんな兄の生活は家族の誰も理解できない。
「どうして突然家族旅行なんてする気になったのかしら?」
 首をかしげる母に、
「インドが恋しくなったんじゃないの?」
 と、小春はとぼけた。
「夏夫が行くならお母さんも行ってもいいかな」
 というわけで、無事、家族四人のインド旅行が実現したのだった。

 朝日が昇り始め、ガンジス川がほのかに赤く染まっていく中、小春はボートのふちにもたれて、朝日に照らされた兄と父と母の顔を眺めていた。こんなふうに四人がそろって一緒にいるのは、何年ぶりだろうか。
 五年前、小春は結婚式を挙げた。そういう場は苦手だと言っていたから来ないだろうとあきらめていた兄は、式が終わったあとにひょこっと現れ、おめでとうと小春に声をかけてくれた。だが、披露宴会場には兄の姿はなかった。兄が来たことを知っているのは小春だけだった。
 兄が家族を避けるのは父のせいだった。会社人間の父から見たら、根無し草のような兄の生き方は理解できないのだろう。父は兄の顔を見るとすぐに説教を始める。頭ごなしにダメなやつだと決めつけるから、必ず衝突する。兄は実家に滅多に帰ってこなくなった。
(十五年前だ……)
 指折り数えて、小春はため息をついた。あれは、兄の就職が決まったときのことだ。兄が二十二歳で、七つ離れた小春はまだ十五歳の中学生だった。一家でカニのフルコースを食べて兄の就職お祝いをした。その半年後に兄は会社をやめて、インドに旅立った。
「俺、前にインド来たとき、ガンジス川で泳いだよ」
 と、夏夫が言った。
「日本人が入ったらおなか壊すって。そう、ガイドブックに書いてあったけど」
 母が言った。
「壊したよ。俺はそんなに軟弱じゃないって思ってたんだけなあ。お腹どころか熱まで出て大変だったよ。死ぬかと思った。三日も寝こんだ」
「三日で治ったんだから丈夫なほうじゃないか? 下手したら入院沙汰になるらしいからな」
 と、父が笑った。小春は目の前で起こっている光景が信じられなくて、会話の輪に入れなかった。家族団らんしているなんて、夢みたいだった。母と父はいがみあってないし、兄は家族を避けていない。来てよかった、と小春は心から思った。

 色とりどりのサリーが風にはためいている。野菜を売ってる屋台が並び、自転車のタクシーが道を走り、クラクションが鳴り響く中、大きな牛がのそのそと歩いている。
 ヒンズー教の聖地であるここバラナシは、地元の信者だけでなく、世界中から観光客が訪れる。観光客が集まれば商人も寄ってくる。人の熱気と文化がぶつかりあい、カオス状態になっている。夏夫いわく、インドの中のインド、それがバラナシだった。
 小春は兄の背中にくっつくようにして恐る恐る歩いていくが、母はサリーを見比べながら、店員に片言の英語で値下げ交渉までしている。
「いらないと言ってるだろう」
 怒鳴り声が聞こえて振り返ると、父がしつこい物売りにからまれているようだった。小春が動くよりも前に、兄が動いていた。父と物売りの間に入って、穏やかな様子で二言三言交わすと、物売りはあっさりと去っていった。憮然とした顔の父に、兄は小さな素焼きのカップを手渡した。小春と母にも渡してくれる。中にはチャイが入っていた。甘い優しい味が体に染みわたる。いつの間に買ったのだろう。インドにいると兄が気が利く男に見えてくる。
「なんて言ったの?」と、小春は兄に聞いてみた。
「俺の獲物だから手を出すなって言ったんだ。あの人、いかにもカモっぽいから、そうでも言わないと納得してくれないと思って」
 確かに……と思いながら、小春は父をまじまじと眺める。真新しいポロシャツに、きっちりと撫でつけられた白髪と、しわひとつないズボン。インド旅行というより、会社の接待ゴルフに出かけるような格好だった。
 インドという行先を決めたのは夏夫だが、旅行のツアーを選んで申し込んだのは父だった。夏夫に任せておくと水のシャワーしか出ない安宿に泊まる羽目になりそうだから、というのが父の主張だった。父の申し込んだツアーは、北インドの主要な四都市をめぐる八泊九日のプランで、少人数でゆったりと回ることができ、宮殿のようなホテルに泊まり、現地の駐在員のおすすめのレストランで料理を堪能できる至れり尽くせりの旅だった。専業主婦の小春やフリーターまがいの夏夫には簡単には払えない金額だったが、そこもまとめてお任せだった。三十にもなって親に頼るのも情けないが、これは離婚を阻止するという目的の父のための旅行なのだ、と小春は自分の良心に言い聞かせた。 
 次の日は、バラナシを離れてアグラに行った。インドにはいろいろな顔がある。バラナシのような生命力と熱気にあふれたカオスな街もあるし、このタージマハルのようにこの世のものとは思えないほど、繊細で美しい場所もある。小春は目の前の建物に見とれて立ち止まった。外壁が白い大理石でできたその建物は、大きな宝石細工のようだった。水がたたえられた池に、美しい姿がくっきりと映し出されている。極楽浄土というものがあるのなら、そこに建っている建物はこんな感じだろう。
「きれいなお城」
 思わず、つぶやいた小春に、
「城じゃなくて墓だ」
 と、父が口を挟んだ。
「ちゃんと勉強しておけ。タージマハル。ムガル帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンが愛する妻のために建てた墓廟だ」
 小春はちょっとむっとした。水をかけられたような気分だった。そりゃ、正しい知識は必要だけど、いったん、感動を分かち合ってから、そっと教えてくれても遅くないのに。
 普段は離れて暮らしているから忘れていたが、そういえば父はいつもこうだった。会社ではきっと偉い立場にいたのだろう。正しいことだけを言い、やるべきことをやって成果を出していれば、部下はついてきたのかもしれない。でも家族は違う。
「愛する妻のために建てたなんて、ロマンチックだね」
 と、小春は言ってみた。
「この墓の建設費のために王国は危機に陥ったそうだ。いくら妻を愛していたとしても、皇帝としての任務を放り出すのはバカだ。男として最低だな」
 小春は母の顔をそっと盗み見た。おそらく父の声は聞こえているのだろうが、その横顔からは何の感情も読み取れなかった。

 ホテルの部屋割りは、母と小春、父と兄という組み合わせで落ち着いていた。母が最初に確固たる口調で「小春はこっち」と呼び寄せたからだ。父を避けてわざとそうしたのか、単に何も考えず男女別に分けたのか、小春には母の真意は分からなかった。 
 広々としたベッドに寝転んで目をつむる。ディナーのときに見た民族舞踊の音楽が頭の中に残っている。色とりどりの衣装で舞い踊る女性たち。スパイスを使ったたくさんの料理と、おいしいお酒。今日見た建物の数々。丸い屋根を持つ白亜のタージマハル。赤砂岩で作られた赤い壮大な城壁。物売りの喧騒。たくさんの人々。
 その中を父や母や兄の声が割り込んでくる。友達と海外旅行したことはあった。夫とも新婚旅行でヨーロッパに行った。でも家族の旅行はそれとは違う。ひとことで言えば、気楽だった。もう三十歳だというのに、母や父や兄の前ではただの小さな妹になってしまう。
 鏡の前で顔にクリームを塗っている母の後姿に小春は話しかける。
「ねえ、お母さん。家族で旅行も、たまにはいいね」
「そうね。最後だと思うと、寛大な気持ちになって、イライラしたりしないしね」
「最後……?」
 硬直した小春に向き直って、母は真面目な顔で言った。
「この旅行が終わったら、お父さんに離婚のことを言うつもり。だから、最後の家族旅行」
 母の決心は固いようだ。小春は何も言えなかった。

「小春、見ろ見ろ。象だ、象。あんなにたくさん」
 興奮してばしばしと肩をたたいてくる手を振り払って、
「ちょっとはしゃがないでよ、大の大人がみっともない」
 と、小春は夏夫をにらみつける。今後の作戦を練るつもりで夏夫の横を歩き、昨夜の母の話をしていたのに、パオーンという鳴き声が聞こえたとたん、夏夫の意識は全部象にさらわれてしまった。
「ちょっと、俺、先行っていい? 近くで見てくるから」
 子供のように走り出した兄にあきれて、「何あれ」と小春はつぶやいた。
「ああ、小春はちっちゃかったから覚えてないか。夏夫は昔から象が大好きでね。動物園に連れて行っても、象ばっかり。門をくぐったらすぐに象のとこまで走っていって、そこからずっと動かなかったんだ」
 しみじみと父がいった。昔のままね……と母が懐かしそうに笑う。ふたりの目には三十七歳のおっさんが、小学生の息子に見えているのだろう。 
 ようやく小春たちが追いつくと、夏夫は蹴飛ばされそうなほど近くまで寄って、象の体をなでていた。辺りにはたくさんの象がいる。みんな背中にかごを載せて待機している。この象タクシーの背中に乗って坂道になっている城壁を登っていき、丘の上にあるアンベール城を見学するのが、ここの名物だ。
 象タクシーはふたり乗りだった。
「わたし、お兄ちゃんと一緒に乗る」
 小春は素早く宣言して、兄のもとに走り寄る。
「何だ、お前。気持ち悪いな……」
「いいから、お兄ちゃんは黙って」
 振り返ると、母はしぶしぶといった様子で父と一緒に象に乗りこんでいた。
「今日一日、いや、残りの旅行日程全部、わたしお兄ちゃんと行動するから」
「なんだそれ。妹にモテても嬉しくない。何も出ないぞ」 
「この旅行の目的忘れたの? このまま普通に旅行して楽しい思い出作って終わったら駄目なの。このまま何事もなく仲良く過ごして旅行が終わったら、お母さん、ますます気持ちに整理がついて、すっきり離婚一直線よ」
「すっきり離婚一直線って語呂がいいな」
「真面目に考えて」
 小春が声を荒げたそのとき、ぐらりと体が揺れた。象が歩きだしたのだ。
「ああ、最高。象の背中に乗れるなんて、俺、生きててよかった」
 きょろきょろと辺りを見回している兄とは対照的に、小春は振り落とされないようにカゴの手すりに必死にしがみついていた。象の背中は意外と高さがある。そして、結構揺れる。
「それだけ象が好きなくせに、前にインドに来たときは、乗らなかったの?」
「こういう観光地にはまったく行かなかったからな。お金がなかったから。スポンサー様に感謝だな」
 じゃあ、少しは協力しなさいよ……という小春の声は、ヤッホーという兄の声にかき消された。

 想像以上に壮大なアンベール城を前にして、今度は小春が興奮した。大きい。そして古い。それだけでなく、緻密な透かし彫りで彩られ、ため息が出るほど美しかった。すごい、すごい、と言い続けて、「お前、すごいしか言ってない」と兄に突っ込まれる。
 昼はカレーを食べた。夜はホテルでバイキングだった。レストランでは兄の隣に座り、バイキングでは父と母をふたりきりにするために、なるべく兄にくっついてまわった。
「あんたたち、そんなに仲良かったっけ?」
 母が不思議そうに首をかしげた。
「たまにだからいいんだよ」
 タンドリーチキンをほおばりながら、そっけなく夏夫が言った。
「きっと一緒に住んでたら顔を見るのも嫌になってるよ」
 夏夫の言い様に、小春は少々傷つく。だが、正論なので言い返せない。そういう冷めたことを言うから、彼女ができても続かないんじゃないか、と心の中で毒づくのがせいいっぱいだった。
  
「今頃、何話してるのかな。お父さんとお母さん」
 ベッドの上でノートパソコンをいじっている夏夫に小春はきいてみた。今までは、父と兄、自分と母の組み合わせで泊まっていたが、今日の作戦の仕上げとして、小春は強引に兄がいるほうに荷物を持ちこんだ。当然、父と母は同じ部屋になる。
「ふたりきりにしたのは、ある意味、賭けだと思うけど」
 パソコンから顔を上げずに、夏夫は言った。
「賭けってどういうこと?」
「たとえば欲しいものがあって買うか買わないか迷ってるときに、商品見てから決めようと思って、お店に行って実際に触ったら、ますます欲しい気持ちが高まるだろう? そのときは理性で抑えて買うのを我慢しても、延々とそのことばかり考えてしまって、頭から離れなくなって、結局買ってしまう。でもさ、考えるのをいったんやめて、一週間くらい距離を置いたら欲しい気持ちは冷めていく。何であんなに欲しかったのか分からなくなる。そういう経験、小春もあるだろう?」
「あるある。えっと……ということは、つまり…?」
「離婚したいと思っている相手と一緒にいたら、離婚したい気持ちがどんどん高まるってこと」
「駄目じゃん。どうしよう」
 青ざめて部屋から出て行こうとする小春に、
「でも、逆に、家族旅行でテンション上がってる今、悪いとことか日頃の不満とか忘れて、一緒にいてもいいかなって思い直すかもしれない」
「どっちなの?」
 夏夫はごろんと横になった。
「分からない。だから賭けだって言ったの。俺は結婚したことないし、したいとも思わないから、ふたりの気持ちは分からない。ついでに、小春がそうやって必死で寄りを戻させようとしてる気持ちもよく分からない。いいんじゃないか? 母さんが離婚したいって言うんだから、させてやれば」
「お母さんはいいかもしれないけど、お父さんはどうなるの?」
「どうなるんだろうなあ。少しはショックを受けて、固い頭が少しはやわらかくなるんじゃないか?」
 小春は兄の背中をにらみつけたが、味方につけるための説得の言葉は見つからなかった。それどころか、どうして自分がこんなにも動揺しているのかも分からなくなっていた。もう自立した大人なのだから、親が離婚して何かが変わるわけではない。小春を動かしている動機は、父と母が他人になるなんて嫌だという思いだけだった。なぜ嫌なのかもうまく説明できない。なんか嫌だ、としか言いようがないけれど、嫌なものは嫌だった。それはただの感傷なのだろうか。
 父と母がどうしているのか気になって、眠れないまま朝が来た。朝食はホテルのレストランでバイキングだ。寝不足でげっそりしている小春とは対照的に、レストランで会った母は、すっきりした清々しい顔をしていた。
 もしかして、うまくいったんじゃないだろうか。そんな希望を抱きながら、小春は母と同じテーブルについた。母はトーストと卵料理というオーソドックスな組み合わせの朝食だ。カレーを何種類に皿に盛ってきて、夏夫が座る。小春はフルーツをつつきながら父の姿を探した。まだ起きてきていないのだろうか。
「お父さんから聞いたと思うけど、お母さんとお父さん、離婚することにしたから」
 バターをパンに塗りながら母が言った。
「小春には、ちょっと予告してあったんだけど、夏夫は初耳だったでしょう。驚かせてごめんね」
「俺、その話、小春から聞いた。でも、父さんからは聞いてないよ」
 母が手を止めて、夏夫を見た。
「ていうか、なんでお父さんから聞くの? お父さんどこ? まだ寝てるの?」
 小春が言うと、母は首をかしげた。
「そっちに行ったでしょう? 昨日、離婚の話し合いをしたあとに、夏夫と小春に話してくるって部屋を出て行ったの。帰って来なかったから、そのまま、そっちに泊まったのかと思ってたけど」
「来てないよ、お父さん」
 小春は言った。一睡もしていないのだ。来れば気づくはずだ。
「じゃあ、どこに行ったのかしら」
「ホテルの中にいるのなら心配ないけど、もし夜中に外に出て変な場所をひとりで歩いていたら、誘拐されて生きたまま内臓取られて、遺体をガンジス川に放り込まれてもおかしくないかも」
 夏夫のセリフに青ざめて母は立ち上がった。そのまま速足でレストランを出て行った。
「お兄ちゃん、なんでそういうこと言うの? お父さんが殺されて内臓取られて川に流されてもいいの?」
「いいってひとことも言ってないだろ。俺は可能性の話をしただけだ」
「そんな最悪な可能性の話、今しなくていいじゃない。そういうとこ、お父さんにそっくり」
 吐き捨てるように言って、レストランの外に出ると母の姿はもうなかった。振り返ると兄はフロントで何やら話しこんでいた。いったい何をしているのだろう。早く探しにいかないと、お父さんを探すどころか、お母さんまで見失ってしまう。小春はやきもきした。
 戻ってきた兄の手にはパンフレットのようなものが握られていた。ホテルのマップだった。
「夜勤のフロント当番の人にも問い合わせてもらったけど、夜中に一人で出て行った日本人男性はいないそうだ」
 と、夏夫が言った。小春は驚いて兄を見つめた。
「外に出てないなら、とりあえず安心だ。まあ、このホテル広いから見つけるの、大変だろうけど」 
 兄のとっさの行動に小春は感心した。いい大人がふらふらして……と父は言うけれど、会社に勤めて結婚して子供を育てて家庭を築くという世の中の定型から外れていても、兄は兄なりのやり方で年を取り経験を積んできているのだ。
「あ、いた」
 兄の指さした先には庭があった。美しい水をたたえた噴水と、インドらしい彫刻が朝靄に包まれて立っている。その中に母らしき人影が見えた。父の名を叫びながら、ふらふらと歩いている。動揺して人にぶつかっても気づいていない。夏夫はいきなり走り出した。小春がようやく追いついた時、夏夫は母を抱きとめていた。
「ごめん、母さん。俺が言い過ぎた。父さん、大丈夫だから。今、フロントの人に聞いたら、誰も外には出ていないって言ってたし、たぶんホテルのどこかにいると思う。今、バーの人とか掃除の人とかに父さんらしき人を見なかったか聞いてもらってるから、部屋で連絡を待とう。ね」
 子供のようにうなずいて、兄に連れられてとぼとぼと戻ってくる母を、小春はぼんやりと眺めた。母が急に年老いて見えた。いつも強気な母のこんな姿も、合理的で冷たい兄のこんなに優しい声も初めて聞いた。
 無言のまま三人でエレベーターに乗りこむ。重い気持ちで廊下を歩いて、母の寝ていた部屋のドアを開けると、そこにうなだれた父がいた。
「どこ行ってたの、お父さん。心配したんだから」
 小春が叫ぶと、すまん、と言って、父は申し訳なさそうに目を伏せた。
「ずっと庭で星を眺めていた。飲みこむのに時間が必要だったんだ。最後はこういう形になってしまったけれど、今まで家族を持てて幸せだったなと思って」
 自分に言い聞かせるように、しみじみと父は言った。そんなしおらしい姿の父を見るのも初めてだった。小春はますます頭に血がのぼって父につかみかかった。
「なに、それ。かっこつけないでよ。眠れなくて外で夜を明かすくらいショックだったんでしょう? あっさり離婚認めないでよ。いつもみたいに怒ればいいじゃない。俺は認めないって頑固に居直ればいいんだよ。だって認めたら、あきらめたら、お父さんとお母さん、夫婦終わっちゃうんだよ。そんなのやだよ」
「小春、落ち着け」
 兄のあきれたような声に、小春は首を振った。
 自分でもめちゃくちゃなことを言っているのは分かっていた。でも止まらなかった。母の気持ちは変えられないかもしれない。でも父は絶対に離婚を認めないだろうと心のどこかで思っていた。認めないながらも、離婚を突きつけられたショックから心を入れ替えて父が変わり、母もそれで心が変わるかもしれないと思ってた。
「小春、ごめんな」
 父が言った。
「母さんは、父さんと一緒にいないほうが幸せになれるそうだ。父さんは、母さんに幸せになって欲しいから、離婚することにした」
「お母さんは?」
 小春は今度は母に食ってかかった。
「お母さんは、お父さんに幸せになって欲しくないの?」
 小春は何も言わない母の顔をにらみつけた。
 そのとき、部屋の電話が鳴り響いた。夏夫が受話器を取り上げて片言の英語で何かを話している。
「ツアーの迎えが来たって」
 電話を切ると、夏夫は言った。全員無言だった。やがて沈黙をやぶるように、
「最後のイベントは何かしら」
 と、母が父に向かってきいた。そうだ、今日はインド旅行の最終日だ、と小春は思った。
「インドミュージカルだ。結構見応えあるぞ」
 と、父が言った。
「最後にふさわしいんじゃない? ぱーっと楽しむか」
 行くぞ、と夏夫が言った。小春は黙ってうなずいた。

 飛行機はゆっくりと成田空港に着陸した。機内から一歩外に出た途端、冷たい空気に取り囲まれ、旅の浮かれた気分が一気に吹き飛ばされる。三月の東京はまだまだ寒い。初夏の熱気の中にいた日々がもう遠い昔のような気がした。
「旅行楽しかった?」
 小春のスーツケースを車のトランクに積みながら、夫がたずねた。仕事が忙しいはずなのに、空港まで迎えに来てくれたのが小春には意外だった。そして、それを嬉しいと思っている自分も意外だった。
「楽しかったよ」
「いいなあ。小春のところは、家族仲良しで」
「まあね」
 複雑な思いで答えながら、小春は九日ぶりに夫の顔をしっかりと見た。少しやつれている。目の下にもくまが出来ている。眠っているのだろうか。ちゃんとご飯を食べていただろうか。夫の顔を見ると、小春は小さな妹からひとりの妻になる。
 きっと家族をうまく続けるためには、相手に何をしてあげられるかを考えないといけないのだ、と小春はふいに悟った。恋人同士だったときは、相手にしてもらったことばかりを数えていた。でも、家族になったら違う。家族というのは自分の体の一部みたいなものだ。いろいろ不満や不具合があっても切り離すことはできない。 
 だから、いたわって思いやって過ごさないとダメなのだ。傷つけたダメージは自分に返ってくる。近すぎて当たり前すぎて、失うまでその大切さに気付かない。
「インドいいなあ。俺も一度行ってみたいんだよね。ほら、インドに行ったら人生変わるとか言うじゃない。小春も何か変わった? インド効果あった?」
「どうだろ。ちょっと変わったかな」
 小春はつぶやいた。何がどう変わったのかは分からないけれど、確実に何かは変わっている。車窓から東京の整然としたビル群を眺めながら、こことはまったく違う時間が流れていたインドに小春は思いを馳せた。最後の家族旅行はまるで夢のように楽しかった。たぶん、一生忘れないだろう、と小春は思った。

 インドから帰ってきて一ヵ月後、大事な話があるからと母から呼び出され、小春と夏夫は実家の最寄駅で顔を合わせた。
「なんで俺たち、わざわざ呼び出されたんだろ。離婚の話なら、もうインドで済んだはずなのに」
 夏夫が不満たっぷりに言った。小春にも呼び出された意図が分からない。
「離婚届を出すのに付き合わされるのかな。あ、もしかして、旅行代金、払えとか……」
「え、それはまずい。俺、貯金ないんだけど」
 帰ろうとする夏夫を無理矢理ひきずって、小春は実家のドアを開けた。
「よく来たな、ふたりとも。まあ、座りなさい」
 改まった様子で父が言った。母はすでにダイニングテーブルの定位置についている。小春と夏夫もそれぞれ子供の時に座っていた位置に座る。
「あなたたちをわざわざ呼び出したのは、契約の証人になってもらいたいからなの」
 母がテーブルの中央に数枚の紙の束を置いた。書類の表紙には、結婚更新契約書と書いてある。
「結構細かいから全部読めよ」
 と、父が言った。小春は兄と顔を寄せ合って細かい文字を読んでいく。
「結婚の契約を更新するにあたって、夫・満夫と妻・小百合は以下の条件を守ること。なおこの契約は一年ごとの更新とし、条件もその都度見直すこと」
 夕食は週に一度は満夫が作る。昼食は各自が勝手に自分のものを準備する。半年に一度は旅行に行くこと。相手を思いやる。月に一度は外食に行く……。
「なにこれ。お母さんたちが作ったの?」
 父と母は真面目な顔でうなずいた。ここまで細かい規定を作るためには徹底的に話し合ったのだろう。
「事情がよく分からないんだけど、もしかして、離婚やめたってこと?」
「とりあえず、一年はね」と、母が言った。
「最後まで読んでね。ここが大事」
 母が指さしている場所を小春は読み上げる。
「なお、契約は一年更新とし、本契約の規定事項が履行されない場合、次回の更新は見直すこととする」
「結婚は契約だという原点に返ったわけだ」
 と、夏夫が言った。やったーと小春は子どものようにバンザイをした。
 兄と母が晩ご飯を食べて行くか行かないかで押し問答をしている横で、小春は夫に『インド効果あったよ』とメールを送信した。

〈了〉 

#家族の物語


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