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アートの価値について、ぐるぐる考える

アート作品についた値段を見ると、お金に対する価値観がぐらぐら揺らいで混乱する。1億とか、数百万とか、そういうレベルなら自分には全く別世界の話で済ませることができるのだけど、小さな絵が、たとえば10万円だったとき、10万円というのは一体何だろう…とわからなくなる。

何か月もかけてできあがったものもあるし、ほぼ一瞬で(素人目には)ささっと描き上げたようなものもある。だとしても、その能力は長年の鍛錬のたまものであって、労力と能力の対価という面で考えれば、アート作品の価格は安い(…いやいや高いよと思う人の方が大半だと思うし、わたしも最近になってようやく「安い」と思えるようになった。そうなったのは、ちゃんと正当に自分の物書き仕事を認めて対価を払ってくれるクライアントさんに出会えているおかげだ)。

でも、1つの商品としてアート作品を考えたとき、購入して飾るという面から考えれば、10万円とは何ぞや、と考え込んでしまう。良いソファーが買える。服やバッグならかなりいいものが買える。かなりの有名なアートでない限り、持ってるとステータスになる、みたいなこともない。ただ自分が好きかどうか。いつでも見れて嬉しいかどうか。という自分だけの基準が試される。

節約すれば2か月分くらいの食費は賄われる。ちょっと豪華な旅行だってできる。10万円を手に入れるための自分の労働を想う。わたしの労働と、このアートにかけた人生から生まれた作品を比べると、わたしには一生かかっても描けないんだから買えるなんてすごいじゃないか、なんて、また価値観がぐらぐらする。

数年前、ご縁があって、赤松亜美さんの小さな絵を1点購入した。今は、デスクの目の前の壁に飾っている。アートをよく買う人にとってはそんなに大きな値段ではないけれど、わたしにとっては価値観がぐらぐらする値段だった。

でも、いつかアートを買ってみたいと思い続けていた。これまで買わなかったのは、部屋に飾りたいと思えるものに出会わなかったから。作品として好きなものは山ほどあるけれど、部屋に飾るなら、寡黙な作品がいい。わたしはこの部屋で、日々いろいろな人になり、いろいろな言葉をつむぐから、言葉が固定されるようなものは飾れない(同じ理由で、ネイルもしない。キーボードをたたく指が目に入って、イメージが混ざってしまうから)。

寡黙で、ひととき心を遠くに運んでくれる、窓から見える自然のような作品がいい。赤松さんの絵に出会ったとき、これだと思った。アトリエに入ってきてクルクルと遊んで去っていった風を描いた作品。

赤松亜美 2016年

以来、アート作品の値段は何に対するお金なのだろうか、と、ずっと考えている。ずっと考えてられているのは、1枚絵を購入しただけで、アートという営みが、他人事ではなくなったからだと思う。

アートを買うという行為は、絵にお金を出すなんて意味がないと考える合理的な効率主義派からちょっと抜けだしてみることだ。当たり前のようにアートを購入することを楽しむ人が周りには結構いるけれど、わたしはまだ、ちょっとしか抜け出せなくて、うじうじして、グルグルし続けている。でもそっちの人になりたいなあと憧れているから、踏み込んでみたのだと思う。その結果、また意味がない派に戻るかもしれないし、もうちょっと見てみようと、深く踏み入れるかもしれない。

値段さえついていなければ、そして、自分で買うかどうかということを考えなければ、アートの世界を美しい別世界として眺めていられる。アート作家たちだって人間だから、お金を稼いで生きていかなくてはいけない現実があるのに、それを見ないでいられる。ご飯を食べなくても生きていける天女たちであるかのような気持ちでいられる。芸術家は、一般のお金の価値観から外れた、穢れなき世界にいてほしいという気持ちが、わたしの中にもある。

小説家だってそう思われている面はあると思う。「図書館やブックオフで読んだということをわざわざ言わなくてもいいのではないか」「それを見ると悲しくなる」というような小説家や出版社の声に、ショックを受ける人たちがいる。本を愛している人たちだ。小説家を応援している人たちだ。きっと彼らは、心のどこかで、小説家は天女たちでいてほしいと無意識で思っている面もあるのではないだろうか。天女がお金のことを口にし、自分の大事な生活費と交換をしろと言ったことに、衝撃を受けているのではないだろうか。

お金は、いい意味でも悪い意味でも、いろいろなものを繋ぐ。尊き天女が作り続けるには生活費が必要だから購入してほしいと言ったとき、天女とわたしたちがぎゅんっと繋がってしまう。作品の値段と自分の1か月の給料が同じだったり、本1冊の価格と外で飲むお酒1杯の値段が一緒だったりしたとき、わたしたちは慌てる。それらと引き換えにするか? と問われることになる。

もちろん、さっさと振りほどいてもいいのだけど、それは「いなくなってほしくない」という願いと矛盾するから善良な人ほど困ってしまう。

自分の手も「いなくなってほしくない」を支えていることに気づく経験は恐ろしい。その手を、慌ててひっこめることもできるけど、アートを買ったとき、わたしは、そのまま重みを味わってみることにしたのだと思う。そうして、怖いけれどがんばって触れ続けていたら、少しずつ自分が変わっていくのを感じている。自分の中にしっかりと根を生やしていた、効率至上主義が、少しずつほころんでくるのを感じている。それは、怖くて不安で痛みを伴う経験だ。でも同時に、その効率至上主義の価値観に査定され続ける人生から抜け出す快感も、少しずつ味わえている。

いなくなってほしくない、でも、お金がないんだから仕方ないじゃないか、という悲しみの声は、作り手に向けるのではなく、この世界の仕組みに向けたらいいのだと思う。作り手だって、できるだけみんなに届けたいけれど、お金がないと生きていけないという悲しみを抱えている。本当は同じ悲しみを抱えているはずなのに、なぜか対立しているのを見ながら、どうしたらいいんだろうなって考えてしまう。

お金自体に価値があるわけではないのと同様、お金が悪いわけじゃない。この世界の仕組みだって、結構うまくいっていることも多い。じゃあ、なんなんだよ…どうすればいいんだよ…って、まだずっと考えていくと思う。

前回の記事を書いて以来、脱ゲシュテル、脱ゲシュテルって思いながら生活をしている。「お金になるかどうか」だけではなく「楽しいかどうか」という基準も取り入れながら、自分の活動を評価している。それって普通でしょって言われそうだけど。1日あたり〇円稼いだぞとか思いながら生活していたのよ、わたしは。そうじゃない生き方をしたい。脱ゲシュテル!

宝塚市立文化芸術センターで赤松さんの個展が行われています。今日の18時まで。見ごたえのある大きな作品がたくさん。入場料無料です。ぜひ。

あわいのつい 宝塚市立文化芸術戦隊1階サブギャラリー


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