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ライターの視点:ウェルビーイングとテクノロジー(シーズン2 第2回)

毎月行われている意識研究会は、シーズン2「ウェルビーイング・テクノロジー」に突入した。他の回の報告は書いてないけど、まあ順番に書こうとしたらいつまで経っても更新できないので、書きたいと思ったときに書くのが吉かと。

意識研究会についての詳細はこちら。

シーズン1の「マインドアップローディング」に比べたら、「ウェルビーイング・テクノロジー」というテーマはちょっと身近な感じがする。だけど、ウェルビーイングもテクノロジーもあまり真面目に考えたことがなかったし、ましてやその2つの関係性も考えたことがなかった。

そういえば、シーズン1の第3回で「マインドアップローディング後の世界のウェルビーイング」を考えたときに、ウェルビーイングを考えるためには土台や枠組みが必要であることに気がつかされた。

老後の暮らしに困らないお金があったらウェルビーイング…くらいのイメージしかなかったけれど、意識をデジタル空間にアップできたら食べるものにも困らないし、病気もない。やろうと思えば、容姿も環境も自由自在に変えられる。苦痛だってなくそうと思えばなくせるし、付けようと思えば付けれる。自分の分身だって作り放題だ。肉体の生はせいぜいがんばって120年くらいだけど、デジタルはそうじゃない。不死とはいえないが、全然違うタイムスケールで生きられる。しかもその時間の流れの感覚も変えられる。

何でも自由にしていいよと言われたら一歩も動けなくなる。どうあるのが一番いいのかと問われて、初めて自分の頭で考える必要性を感じた。

「意識をアップロードする」というテクノロジーがウェルビーイングの在り方を変えるかもしれない。つまり、テクノロジーとウェルビーイングは密接に関係しあっているのだ。たとえば、人間のためのテクノロジーのはずなのに、ときには人間のウェルビーイングを損なうこともあるかもしれない。

ウェルビーイング・テクノロジー。

この字面を眺めているだけでも、味わいがある。

というわけで、切り口はたくさんあるけど、まずはウェルビーイングについてのレクチャーがあった。ウェルビーイングとは何か、どのような切り口で考えていけばいいか、これまでの説、信原先生の考え、ウェルビーイングとテクノロジーを研究している渡邊淳司さんの考えなどが紹介された。全部書くと本1冊になりそうだし、いずれ本になるのだろうけど、シーズン2はわたしの担当ではないので気楽に外野の視点からわたしの印象に残ったものをわたしの解釈で書きだすと、

・ウェルビーイングには経験(意識)が不可欠。哲学的ゾンビはウェルビーイングがあり得ない。

・本人が主観的にウェルビーイングと思っているからといってそれが本質とは限らない。自分では知らずに他者からの支配されていたりするかもしれない。もっと良い環境や新たな知識などを得ることで、さらなるウェルビーイングがあるかも。

・かといって客観的に測れるものでもない。しかし、何らかの指標でウェルビーイングを測定して向上させようという試みは、やりようによってはウェルビーイングを向上させるためのきっかけになるかも。

・自律性はウェルビーイングの重要な要素

・テクノロジーは便利さを高め、私たちが自律性を発揮する機会=ウェルビーイングを自分で作り出す機会を奪っている。

・「効率を高めることは良いこと」という考えが私たちを駆り立てる。その考えに基づいて作られた、もしくは使われるテクノロジーは、私たちを駆り立てる。

・でも使う人の考え方が変わればテクノロジーを使っても駆り立てられることから脱出できるかもしれないし、効率以外の価値を提供するテクノロジーを生み出すことで人を駆り立てないテクノロジーもあり得る。

上記で駆り立てと言っているのは「ゲシュテル」のことで、哲学者ハイデガーが近代技術の本質を言い表すために用いた用語を、分かりやすく「駆り立て」と訳して紹介してもらった。

ゲシュテル 《ドイツ語で台架・支持枠・骨組みなどの意》ドイツの哲学者ハイデッガーが、近代技術の本質を言い表すために用いた語。技術が人間を生産に駆り立て、その人間が自然を利用するといように、強制的な徴発性を根源に持つ体制こそが、技術の本質であるとする。

デジタル大辞泉「ゲシュテル」より引用

そのおかげで、わたしの中でいろいろなイメージが湧いてしまい、締切に追われて駆り立てられている自分の姿が重なって、他人事ではなくなった。わたしはテクノロジーに駆り立てられているわけではなく、締切に駆り立てられているわけで、編集者が駆り立てているというか、そもそもその仕事を受けて約束したわたしが駆り立てているわけで、じゃあ、わたしの何がわたしを駆り立てているのだろう…と思いながら会を聞いていた(というか質問もした)。

その結果、効率を高めることが良いと考えるわたしが、わたしを駆り立てているのだとわかった。テクノロジーは使う人次第で脱ゲシュテルできるし、効率を高める以外の価値を高めるテクノロジーを作れば、ゲシュテルではないテクノロジーも作れるという話も腑に落ちた。

締切がたくさんあっても、脱ゲシュテルな働き方ができるだろうか。締切がたくさんあるから、効率的にやらないと間に合わないと思って駆り立てられるけど、もしかして効率的にやらなくても間に合うのではないだろうか。いやあ、それはないな。じゃあ、いっそ、締切は、間に合わなくてもいいのではないか。

いやいやいや…ダメだ。社会的に死ぬ。

どうしたら「効率を高めることが良い」という考えから逃れて、脱ゲシュテルできるのだろうか。…と考えていたら、村上春樹さんの仕事方法が思い浮かんだ。締切はなく、自分が書きあげたら作品を出版社に渡す。そんな仕事方法は理想だなと思う。

良い作品を作り上げるには効率は必要ないし、効率を考えること自体が害になる。良い作品を作り上げる、良い仕事をする、思う存分、自分の力やを注ぎ込んで楽しく作り上げる――そういうことを自分の人生の一番の価値と置くことは、やぶさかではない。(※注「やぶさかではない」というのは、しょうがねえなあ、としぶしぶやる気持ちではなく、努力をためらわず喜んでするという意味…ということを調べて初めて知りました。間違って覚えていました!)

やぶさかではない!喜んでする!大歓迎!それだ!それだよ!そうしよう!

脱ゲシュテル!どうやったらいいのかわからないけど、とりあえずは、今の締切を終わらせて、心臓がぎゅうぎゅう掴まれて胃がきりきりする生活から脱出して、そうしたら仕事の受け方を変えればいいのではないか。

たとえばブックライティングのような大型仕事は、今受けているものが終わってからしか着手できないし、今受けているものが終わるのはいつになるかは約束できない、なんて。みんなあきれて去っていくと思うけれど、それでいいな。それがいいなあ。でもそれでも待ってくれる人がいたら、必ず良いものを作り上げよう。

…なんか締切の話になってしまいましたが、めっちゃ面白いですよ、意識研究会。たぶん参加する人によって、面白がるポイントはいろいろ違う。

シーズン1で意識をデジタル空間にアップロードすることが理論的に・哲学的に可能かもしれなくて、それを自分だったらやりたいかと考えてみたおかげで、これまで疑うことすらしなかったたくさんの前提が一度きれいにリセットされた。そうしてまっさらな状態で、問いに向かうことができた。

科学と哲学の議論によって、わたしは意識をデジタル空間にアップロードする体験をしたのだと思う。想像の中で。

それに気づいたときに、ちょっと嫉妬した。植え付けられた価値観をリセットして新たに自分で作り直すお手伝いをする――そんなことをわたしは小説でやりたいと思っていたから。

整然とした論理の積み重ねや問いを解きほぐす哲学の力と、実現できるかもしれないと思わせてくれる科学の力のおかげで、わたしはいまそれを体験できた。わたしも、その両方を手に入れて、物語を紡ぎたいと思った。

…テクノロジーの考察まで届いていないけれど、ちょっとずつ追い付いていきたいと思います。

意識研究会、次回は9月20日。シーズン2の最終回です。東京で対面開催とオンラインも同時開催しています。気になる方は連絡ください。

表紙はAIに「テクノロジーによって効率化することで人間性が奪われていくことを表すイラスト」ってリクエストして出てきた絵です。


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