「分かる」の温度差
空気が変わる瞬間
人と話していて、「ハッ」とする瞬間があります。
言葉が放たれた瞬間に、相手の、もしくは周りの顔色や
空気が変わった様な気がして。
自分が話してはいなくても、他の人が話してそんな場面とか、
恐らく1度はそんな経験がある方も多いのではないでしょうか。
私は神経難病のギラン・バレー症候群になって、
人によって違う症状や進行度、回復度であることを知り、
自分の時もどんな病気かを知りたかったし、とある約束もあって
ブログ(現在はnoteに移行)を始めました。
その中で、他の人はどうだったのか知りたくなり、患者会へ。
そこで、今まさに大変な時期を過ごされている当事者やご家族との
会話の中で、そういう経験をしました。
簡単に言っちゃいけない言葉ってあるんだな
もちろん今までも、そんな言葉はたくさんあります。
いわゆる差別用語にあたるものとか、直球過ぎる投げかけとか。
礼儀に反する事だって、そういう中に入るでしょうし。
でも、病気になってから知ったそれは、今までは会話で
普通にしょっちゅう使っていた言葉でした。
「分かる!」の怖さ
それを教えてくれたのは、あゆかんのあゆの方、
あゆちゃんでした。
発達障害の当事者であり、発達障害のお子さんを持つ
親御さんでもある彼女は、それに傷ついてきたと言いました。
あゆかんラヂオ(standエフエムで二人で話すコラボラジオ)で
話している事も一瞬忘れる位、私は内心動揺しました。
恐らく、最初に話に出たのは、Twitterスペースで話していた時。
発達障害の当事者の方やそのご家族から、その話が出ました。
その時は、すぐに次の話題にいってしまったのですが、
あゆかんラヂオは、2人でじっくり話す分、ちゃんと聞ける。
私は困惑しながらも、あゆちゃんに正直に言いました。
「ごめん、普通に言ってた。自分の経験を思い出しながら・・」
あゆちゃんは怒ることなく、何故自分が傷ついた気持ちになったか
教えてくれました。
「定型さん*とは、困っている程度が違う」
(*定型さん:発達障害の診断を受けていない人)
短いけど、今までの想いを吐き出すように言い切った
あゆちゃんの声を聴いて、私は言葉を失いました。
と同時に、「分かる!」の怖さを初めて知りました。
その人にとっての「分かる」とは?
「分かる!」とは、私にとっては共感の言葉でした。
決して軽んじた訳でも、軽く流そうとしたわけでもなく、
一瞬で自分の経験や、その状況を想像して、そう言っていた。
確かにそれは間違いないのです。
でも、その経験が話した人にとって大変で、辛くて、
苦労した事であればある程、軽く分かるとか言わないで
となる気持ちも、あゆちゃんのその一言で知りました。
きっと、人それぞれにあるんだと思いますし、
「分かる!」に込める意味合いも違うんだと気づきました。
私は定型さんとしてではなく、今まで気づかなかった
「分かる!」の言葉が傷つける言葉にもなっていたことを
あゆちゃんに謝りました。
あゆちゃんは「かんちゃんが謝ることはないけど、
そのことを知ってもらえるだけでもありがたい」と言いました。
「知ってもらえるだけで、ありがたい」
この言葉は、発達障害の話をする時、あゆちゃんがよく言う言葉。
知らないことでお互いに傷つけてしまう。
だからこそ、お互いに知る機会を増やしたい。
自分は当事者として、親として、人と人を繋ぐ通訳になれたら。
あゆちゃんの想いは、私がこの人と何かしたい。
その想いを強くし、実際に行動し、続けていく原動力です。
私の願いは、発達障害に限らず、病気をもつ人やその家族、
医療従事者や関連企業の人が立場を超えて、ちょっとした話を
気軽に出来る場を増やすことですが、正直みんな、です。
今は病気を持たない人、学生の方、子育て真っ最中の人。
会社員の人、自営の人、みんなそれぞれ大変な毎日を送っています。
その息抜きというか、適度な距離感の場でちょっと聞いて話して
笑ってまた元の場所に戻っていく。
あゆかんは、そんな場にしたいし、そうでありたい。
スタッフとして参加しているPiacere(ピアチェーレ)も同じ。
簡単に「分かる!」はダメかもですが、気持ち的にはそうありたい。
「分かる!」の言葉に込めた想いはそれぞれで、
受け止め方もそれぞれですが、出会えた人と話す時
その人にとっての「分かる!」を考えながら話そう。
そんな風に思ったのでした。
あゆちゃんとの会話は、楽しくて時間を忘れる程ですが、
楽しい中に大事なことがたくさん入っていて、宝探しの様です。
これからもあゆかんとしてよろしくお願いします。
話す度、そう思いながらスマホを置きます。
この出会いに感謝。
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