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025 心から病気

心には緊張と弛緩がある。

適度な緊張は心を鍛え、適度な弛緩は心を成長させる。

範囲外の緊張は心を壊し、範囲外の弛緩は心を弱体化させる。

全く筋肉や骨と同じ道理にある。


心の性能が高いとは感受性が強いことである。

それは小事を大事にする感性でもある。

現代は、直接であれ間接であれ他人と接し仕事をして生活している。

以前の暮らしに比べ、格段に人との関わりが多いのである。

よかれあしかれ心はストレスを感じるのである。


だから多くの人は貯めたストレスを発散させることになる。

なんとか、たまったストレスを強制的に発散させるのである。

ニコチン・カフェイン摂取・飲酒・趣味・食欲・肉欲・愛欲などいろいろ手はある。

そして再び日常のストレスを受けられる状態にするのである。


このストレスの蓄積と発散は心の許容量を広げていく。

負けない心・強い心になる訓練にもなる。

だんだん動じない心になっていく。

それは同時に、心を鈍感にしていくことである。


ストレスの発散は基本的にストレスの元をどうにかするようにはしない。

所属社会で貯めたストレスを所属社会外で発散するのである。

直接の原因を取り除いていないので一時しのぎである。

延々この作業を繰り返すことを前提にしているのである。


このストレス発散方法は一種の心への誤魔化しである。

この誤魔化しが心に効いているうちはそれでいいのである。

ただ一般には効果のある方法も、心の性能の高い人はそうはいかないのである。

それは心の性能が高いので決して誤魔化されないからである。


擬似的にストレス発散して、誤魔化すこと自体が心のストレスになってしまうのである。

心の性能が高い人は、引きこもり、うつになり、ノイローゼになり、精神が分裂していく。

成功している人間ほど精神が分裂している世の中であるから仕様がないのである。

性能が高い故に、時代のリードには着いていけないのである。


精神が分裂しているとは、いいと思うこととやっていることが違うことでもある。

それはそれ、これはこれと分けて考える考え方でもある。

それは一見、適応能力の高さに見える。

しかし、一貫性や普遍性といった拠り所がないので、いずれ心苦しくなるのである。


家族・友人・客・上司・会社・株主・国・世界など社会の求めに無意に応じることである。

ちょっと違うと思っても要求どおりやってしまうことである。

すこし疑問に思っても、立ち止まって考えないことである。

自分の心の声を無視することで始まるのである。


換言すれば、皆がそうしているからと自分勝手な幻想を抱いている状態である。

しかし、それが薄々なんの拠り所にならないことを知っている状態である。

なんとなくだが、このままではいけないのでないかとも疑っているのである。

自己疑問と自己肯定との平衡がとれた心理状態のことである。


まずは間違って理解してしまった心をその時点まで退行させる。

そしてその状況を受け入れ、仕方なかったことだと承知させるのが心理的治療である。

社会においても同じ手法で直せるのである。

なぜなら社会とは個人の集合体でしかないのでからである。


精神病とは心の尊厳である魂が穢されている状態のことである。

それは、なにも表層に症状が出ている人だけが罹っているのではないのである。

ただ一部の心の感度が高い人が表面に出しているだけなのである。

決して他人事に思えない人は、薄々感づいている人であり、その予備軍なのである。


体や心が病むのは体や心が悪いからという常識では犯人は見つからない。

その病気の犯人は最も疑われづらいところで笑って観ているのである。

なぜなら病気の犯人は今の常識・価値観そのものであるからである。

そしてその常識・価値観を是認する頭こそが真犯人なのである。


体の病気を一時的に治してみるとわかることがある。

それは、なんの価値観を変えない限り、より深刻化して再発することである。

心の病気を一時的に治してみても同じである。

価値観を変えない限り、より深刻化して再発するのである。


対処療法を受ける体や心は、対処療法では治らない。

一時的に引き下がっても「次は見ていろよ」とさらに怒りを増すのである。

体や心の病気の真の原因は体や心の中には無いのである。

体や心はただ売られた喧嘩を買っているだけである。


そして心や体に喧嘩を売ることができるのは唯一頭だけなのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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