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031 消えた文化病

田舎に無い文化
 新聞やテレビを通じて「日本の文化を守ろう」とか「地域独自の文化を創り出そう」とかいうことばを見聞きする。日本は米の文化、自然と一体になる文化、道を極める文化、日本を修飾する文化は多い。それに「文化」と聞けば、なんだか堅苦しい響もあり、なんとなく立派ですばらしいものだという、肯定的な印象がある。
 田舎で土着した自給暮しを生活の基盤にしようと古農家を探していたときに「田舎には文化がない」ということを田舎と都会の両方で聞いた。その時はただふむふむと聞いたが、どうもちょっとおかしいと疑問に思っていた。私の考えている「文化」と田舎で聞いた「文化」と都会で聞いた「文化」とどうも噛み合っていないのではないかと思い引っかかっていた。その体験をもとに「文化する」という小話を作ってみた。

文化する
 都会に暮らしながら、田舎暮らしを志す中年に、ある田舎に暮らす老人が言った。
「田舎には文化がないけど大丈夫か。」と。
そしたら、それに続いて都会に住む若者が言った。
「そうなんだよなあ、田舎には文化がないから私にはありえない。」
そしてそこにたまたまいた漢文通の人が言った。
「そうだねぇ、文化は都会の方が進んでいるからねぇ。」
それを聞いていた中年は不思議に思った。
「田舎に文化がないってどういうことだろうか?」
もしここに戦前の大人がいればこういって会話に参加するだろう。
「田舎は文化なんかしなくていいんじゃないか。」と。
そしてもし戦前よりずっと前に、日本語ができる欧米人がいれば、こういうだろう。
「文化は田舎ですることだよ。」

 どうだろうか。皆同じ「文化」という語を使っている。ちなみに文化はカルチャーの翻訳語である。そして誰一人、間違った意味で言葉を使っていない。だが、ここに出ている六人は、だれとだれとも意思の疎通が出来ていない。それは皆が違った意味で同じ「文化」という語を使っているからである。どういうことか。次にそれぞれの「文化」の意味とその具体的なものを見ていく。

田舎の老人は「文明開化。世の中が開け進み生活が便利になること。又はハイカラ。」という意味で、具体的には最先端の娯楽施設や商業施設など、場合によっては、新商品とか新サービスなどを指している。
都会の若者は「人間が作り出した精神的所得のなかでも、特に芸術や美術。」の意で、美術館、コンサート、演劇、などを指している。
漢文通の方は「文民教化。権力・刑罰を用いずに導き教えること。」高校・大学・塾などの教育機関や場合によっては○○教室などのカルチャークラブなど。
田舎を目指す中年は「人間が作り出した精神的所得の総称」道徳・宗教・慣習などだから、どこにでもあること。
 戦前の大人は「新しがり・西洋かぶれ」文明開化することを揶揄(やゆ)する意。
最後に出てくる1,440年頃の欧米人は「耕作・栽培」田畑の耕作や家畜や植物の栽培『研究社英語語源辞典』。ここでは、特に田畑の耕作。
このほかにも「文化」という年号もあるが今回の寓話には入れてない。
どうだろうか。
 田舎に文化がない派は、田舎の老人、都会の若者、漢文通だが、どれも意味がちがうのに、同じ意見である。一聞きしていれば、話が通じているようにみえるが、具体的なものとなれば、違うものイメージしており、厳密に言えば話が全く通じていないのである。それは登場人物の文化が違うからである。
 
戦前の文化
 戦前に特徴的である「新しがり・西洋かぶれ」の意は、戦前の国語辞典の廣辞林(金澤)・大言海(大槻)・辞苑(新村)・明解国語辞典(見坊)に記載されていた。そして戦後は言林(新村)・明解国語辞典改訂版(見坊)・新言海(大槻)にまで採用されたが、その後の広辞苑(新村)・三省堂国語辞典(見坊)には記載されなくなった。また、戦前の大日本国語辞典(松田)になかったからか、すべての日本語意を載せることを目指す日本国語大辞典第一版(松田)にもこの意は記載されていなかったのは少し残念である。

文化は耕作から
 明治以前の漢語に文化はあったが、現代の主流の意は明治以降に英語やドイツ語の翻訳語である。最後の戦前の欧州人としたのも、現代英語のカルチャー(culture)にも耕作の意はなくなっているからである。しかし、すぐ近くには元になっている動詞のカルティベイト(cultivate)があり、その主たる意が耕作するであるので、カルチャーが耕作に通じるニュアンスは切れない。また英米人と限らず欧州人といったのは、なにも英語だけでなく、ドイツ語の文化(Kultur)もフランス語の文化(culture)ももともと同じ語源のラテン語の耕作(クルトゥーラ)から来ているからである『ことばコンセプト事典』。

食糧自給率が低いことが示すこと
 文化の語源のふるさとの欧州では、国の食糧自給率をことのほか気にする。自国についてもそうだが、他国についても食糧自給率が低い国を少し低く見る傾向がある。適材適所で世界的に役割分担を進め、経済的相互依存度を高めることを是認していたとき、不思議でしょうがなかった。農業に向いている国が農業をし、工業が向いている国が工業をすればそれでいいのでないか。どれを主たる業にしても大して変わらないと考えていた。
 食は文化とよく言われるが、欧州では、その食以前の農業こそに文化があると考えているからである。英語では、農業をアグリカルチャー(agriculture)というが、それを日本語で表現するなら、アグリが農+カルチャーが文化なので「農文化」である。この「農文化」と書いて「のうぎょう」と読んでいるのだ。だから欧州では、食糧自給率が低いことを文化が低いとみるのだ。耕作の無い文化は、基礎の無い家、タイヤのない車と同じである。食糧自給率が低いのは、文化を大切にしない文化の国と映るのだ。無論、国は国民の総称でもあり、文化の低い国民と見えてしまうのである。

文化の発展経緯
 明治以降に浸透した「文化」ということばには、原語のカルチャーと違い、全く「耕作」のイメージがない。それは、もともと「文民教化(文で民を教化する)」略して「文化」が目的だったことばだったからである。
 では、なぜ明治政府は文民教化(文化)をしたのかを考えておく。それは「文化」には「文化」の尊厳があるからである。簡単に言えば、文民教化(教育)は文明開化(文化)のために必要であった。それは国民を教育して、使いやすい人間に育てることである。読み書きそろばん、礼儀などができなければ、人は大変使い難く、文明開化(新技術・大量生産・快適便利)はできないのである。
 いや、読み書きそろばんなどは、実務に入ってから充分覚えることは可能である。パソコンだって勤めるようになって覚えた人も多いだろう。教育の真の目的は、それが意図するかしないかを問わず、いわれたことをする人間にすることである。だから、読み書きそろばんでも科目はなんでもいいのだ。ただ上(教師役の人)の指示に応える人にさせたかった。上司の指示にイチイチ反論する人間は使いづらく生産性が上がらない。なまじっかの知識など無い方が使いやすい。教育の裏側は常に生徒の社会性や従属性を身に付けさせるものがある。だから国民としての権利教育ではなくて、義務教育なのだ。だから、教育の義務化に対して各地で反対の一揆が起こったのである。
 では文明開化はなぜ必要だったか。それは富国強兵するためである。経済を発展させ、軍事力を増すためである。ではなぜ富国強兵が必要だったか。外国の軍事力に屈し、開国させられて、不平等条約を結ばされたからであり、それを解消するためである。なぜ不平等条約を改正させたかったか。それは気分が悪いから。なぜ気分が悪いのか。それは尊厳を穢されているからである。では、なぜ尊厳を穢されたままでいられないのか。それが人間だからである。善くも悪くも人間という自覚がなければ文化はない。
 なぜ明治政府が出来たか考えればわかる。それは米国の武力に屈したからである。それがなければ、明治政府は出来ていないのである。そのために文化は広まったのである。
いろんな本で日本は農耕民族だと目にする。それも不思議だった。特に対比となる欧米を狩猟または牧畜民族とするところが。欧米人であっても古くから定住して農耕して麦などを作っているのではないか。それに「耕作」と書いて「文化」の意とするとか、「農文化」と書いて「農業」の意で使うとか、はたまた食糧自給率をかなり気にするあたり、どうしても欧州の方が農耕民族のようにみえるのはおもしろい。

消えた「文化病」
 文化の影響した言葉、文化の派生語に「文化病」ということばがあった。新村出の戦前の辞苑に『文化病:文化の発達と共に増大する疾病。神経衰弱症。』とある。しかしその後の新村辞書、すなわち戦後の言林・広辞苑には記載がなくなった。ただ日本国語大辞典一版では『文化病:文化の進歩に伴って増加してくる疾患。神経衰弱、通風、糖尿病、公害病など』とあるが、改版をする主な国語辞書に記載はなく、死語になっている。
 では、文化病であった神経衰弱症などは減ったのか。いくつかの本を読むと、神経が衰弱して生きる気力がなくなる人は、文明開化(学問が開け進み、世の中が便利で快適になる)が進むにあたって、どうも増えているようである。社会的引きこもり増加はその一例である。そのほかの通風、糖尿病、公害病はどうか。確かに公害病は水俣病や四日市や川崎の喘息は新たな発症はなくなり、かなり減ったであろう。しかし、ぜいたく病と言われる通風や糖尿病は増加傾向にある。なぜなら健康を取り扱った書籍やテレビ番組が人気を得て、機能性食品も売れ、マクロビオテックや粗食という伝統的な食事法が注目も集めるのは、その裏返しであるからである。さまざまなアレルギーは周知の通り増加の一途である。  
「では文化病の対象の病気種類も病気に掛かる人も増えているのに、どうして、ほとんど使われないことばになったのか?」という疑問が生じる。
 戦後「文化」は、西洋かぶれ・新しがりといった意味がなくなり、完全是認される。それと同時に病との関連を見ないようになった。反感を買わなくなった文化は急速浸透した。そして多くの人が成人になると病になるようになった。そこで文化病は成人病と改名された。
 もともと文化病は一部の文化人が掛かる病気であったのだが、戦後は多くの成人が掛かることで成人病へと変わり、ついには小児までが成人病になるようになったので、今では生活習慣病と言われるようになった。生活習慣が病になる時代である。この病気の総称の発展は「文化が成人すると生活習慣が病となる」と理解できる。思いきって途中を端折れば、文化は病となる。もともと文化病だから当然である。
 文化の基は農があるのは先ほど見た。だから、病の下は農の問題がある。
 では戦後の経済の発展の目的はなんであるか。戦後の復興が目的である。そこまでは一応明確である。その戦後の復興が済んだあとは、現在までの経済発展の目的はどこにあるのか。国防か、快適・便利で豊かな暮しか、グローバル社会の競争を勝ち抜くためか、そのすべてがその通りだとしても、それ以前の尊厳回復のような目的ではない。端的にいえば今は経済の発展そのものが目的になっているのである。換言すれば目的なき経済発展なのである。それは経済を発展するために、物やサービスが豊かで便利で快適な生活を目指しているようにも見えるのである。これは経済発展の完全是認の状態であり、制御できていないので、不安の元になるのである。

#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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