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026 頭から病気

体の性能の良さが体の病気のなりやすさである。
心の性能の良さが心の病気のなりやすさである。
それは頭の性能の良さが心と体を病気にしているからである。

体や心が病気になるのは、頭が病んでいるからである。
常識としている内容がおかしいということである。
まことのある常識ならば、病気にはなれないはずだからである。
まことのない常識が作られるのは頭の性能がいいからである。

いま常識はどうやって作られるか。
社会をリードする人たちが作るのである。
どういう人がリードするのか。
頭のいい人がリードするのである。

どうしてそのリードが受け入れるのか。
社会の要求に沿っているからである。
どうして社会の要求がわかるのか。
社会の要求を気にしているからである。

どうして社会の要求を気にするのか。
要求に応えることで効力感を得られるからである。
どうして社会から効力感を得たいのか。
人は社会の中でしか生きられないからである。

頭のよさとはなにか。
少しの情報で本質を見抜くこと。
それを他の情報と関連付けすることである。
前提条件を整理し、方向を導き出す能力でもある。

少しの情報はいつ入るか。
それは物心が着く時である。
それは託児所・保育園・幼稚園など初めて集団生活をする時である。
そこで、社会性を身に着けることを要求させるのである。
そして、その必要性を全身で理解するのである。

社会性をなぜ身につけなくてはならないか。
それは社会の中で生きるからである。
人間は社会性がなければ、生きていけないのである。
親も周りもそうしているのである。

頭がいいから、無駄に争わず、その後は社会の要求を率先して受け入れていくのである。
自ら自身を社会の元に置くのである。
社会のために生き、社会に報われることを望むのである。
そうして、いずれは所属社会をリードする役になるのである。

リーダーの社会のためのがんばりで、社会は発展していく。
社会内の役割分担は進み、社会内の競争は激しさを増すのである。
換言すれば金銭を通した生活が幅を利かせるようになるのである。
これは他人の助けを前提に生きることになるのである。

それは、自分で直接自身を支えられなくなることである。
自分は自身との関わりを減らし、自身を知れないことになる。
これが潜在的な不安な気となり、病の気の元になるのである。

進歩するとは何かが変わっているのである。
それは、安心・快適・便利に向かっているのである。
表層は、安心・快適・便利を喜んで受け入れている。
しかし深層では、同等に不安・不快・不便を感じているのである。
進歩するほどに表層と深層がだんだん離れていくのである。
それは、深層はだれにも頼らず、ただ存在することだけを欲しているからである。

社会に貢献して生きるという考え方にはもともとに自分がない。
ようするに頭(はじめ)に自分を置いていない。
頭を自分の属する社会情勢(社会善・常識)に沿うことを前提にしているのである。
これのどこが問題なのか。

それは社会の動向が変われば、自分の是とするものを変えるのである。
それは一見すると柔軟性見える。
しかし、最終とする目標がないので、いつでもふらついているだけなのである。
これは俗に「(あたまに)自分がない考え」と言われる考え方なのである。

それは、自身の存在を社会ありきの前提条件で考えるからである。
自身を置き去りにして社会を主に考えるところにある。
自身の存在は、社会より先にあるのだから、本末転倒しているのである。
頭の中の自分が認識できる順序は、まずは実存する自身なのである。
その次に社会を含めたその他を認識できるのである。

自身の主はだれなのか。
自分の宿っている場所は残念ながら社会ではなく自身なのである。
これは自我の感覚を備えてしまった人への問われているお題である。

社会の下に自身、その下に自分(頭)、その下に心と体を置く。
すると下に置かれた自身の心と体の尊厳は穢されるのである。
そうして心と体はふて腐れるのである。
そろそろ気づいてくれと、病気に出すのである。
仕舞には「本気で怒るよと」警告しているのである。

社会の善を察する人は自主的にその方向に進む。
だから社会は自主的に進歩していく。
それは社会の有効性を広げ、幅を利かせることである。
終には「社会がないと生きられない」といった恐れを個人に抱かせるのである。

頭がいいと少しの情報で悟性が働いてしまうのである。
それはまだ自分の物差しが出来る前から発揮してしまうのである。
自分の物差しが無いので、社会の物差しを使うのである。
そこには「早合点」(誤解)があるのである。

社会は頭のよさをエネルギーに発展する。
それが役割分担・代行サービスを進めるのである。
家の核であった野良仕事や山仕事がなくなるのである。
それは役割分担家族になることを意味するのである。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe  

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