042 頭がいいという問題
難易度の高い試験をパスすると「頭がいい」という問題
入学試験の難易度の高い学校に入学したり、合格率の低い国家資格を持つと頭がいいという常識がある。それにどうしても同感できず考える種であった。そんなに簡単に頭のよさが決められるはずはないのではないか。
たとえば入学試験の予備試験のことを学力試験というぐらいだから計れるただ学力の高低だけだろう。その学力といってもその科目の対してということであり学校で習う知識のごく一部であるし、社会全体知識のなかの極小範囲のこと。どこをどうとっても、その手の試験では頭のよしあしを測れるはずはないと考えていた。何回学力試験を受けてもどうしても頭のよさとの関係性がみつからなかった。それに学力が頭のよさであるという理論もみかけない。ただまったく生活に不要な知識を、事前にいくら記憶しているか計っているだけにしか見えなかった。
社会に出て、いろいろな人と仕事したり話をしたりしたが、やはり頭のよさと学歴や資格とは関係ないようだった。仕事をしていて、かなり回転がはやい方も何人もいたが、その人たちと学歴とは特段相関関係を感じなかった。また、国家資格が無くとも有資格者よりも知識が広く深い人などは何人もいた。
学歴や資格が頭のよさに相関関係があまり見られないのは、頭のいいと言われる人々が書かれた本を読んでもわかることである。ほかにはテレビや新聞の発言を通じてもわかる。いくら謙虚に探そうが、心底この人は頭がいいと思われる人は皆無なのである。途中の段階では、いくらか賢いと思わせる人が確かにいる。その考えであってもその人オリジナルということは少ない。
それに、いいと思った考えはいつのまにか自分の考えになり、ほかの考えとともに結合して、ついにはその人の考えを超えることを考え出していってしまうのである。後から追うのだから当たり前のことである。
結局は自分自身が一番賢いとなるのである。そう高慢なことを自覚することが謙虚なのである。自分を含めた万物は自分自身のものさしでしか計れないのだから当然なのである。
いわゆる「頭の良さ」とは、知識の多さではなく、少ない知識で、関連付ける能力にあるとも言われる。ただ一を知って一〇を知る事は原理原則的に言って不可能である。ただ一〇までを知れば、だれでも読み方は不明だが一〇〇や一〇〇〇などを推測する事はできるのである。
現在言われるところの頭のよさとは、それが早いことにある。この少ない知識で関連付けしてわかれば、少し賢くなる。それを和語にすれば小賢(こざか)しいとなるのである。だから、頭の回転の早さはつねに小賢しさを付随するのである。
関連付けをする能力のベースには、物事の理解力がある。その理解の語源は「アンダースタンド」であり、つまり、下に立つとことである。対象となる事柄について、その下に付く早さが理解力なのである。上から目線では対象を理解することは不可能であり、また同格ならただ存在を認めるだけで、理解などしないからである。
逆に頭の悪さとは、一から一〇までをなかなか記憶しないことにある。なぜそれが一なのか受け入れないのである。無論二から一〇までもそうである。だが、生きているうちにそれをしらないと困りそうなので、しぶしぶ一から一〇までを受け入れるのである。当然、そこから類推することなどしない。
なぜ、受け入れないのか。他人が勝手に決めたことだからである。自分が決めたことがあれば、大概は自ら記憶されるものごとも、他人の決めたことをなかなか理解や記憶ができないのである。仮に頭が悪いとされても大概はだれでも母国語をしゃべることは可能である。いやしゃべれなくたって理解することは可能なのである。その母国語のほとんどは教育されて記憶させているのでない。生きる上で必要だから自分から学び(まねて)取っているのである。言語に比べれば、どんな学術であっても理屈があるのでやさしいものである。後追いのものは唯後追って記憶すればいいからなのである。
いや、そうではない。そんなに簡単に記憶できないのである。不要・無駄だと思うものを記憶することはなにをどうしても不可能だからである。いくら記憶しようと躍起になっても深層が不要とするものを記憶できないのである。
なぜ、人生の貴重な時間を、実際の生活や仕事に不要な知識を、それを一時の間、記憶しておくことを頭がいいというのだろうか。自分には到底出来そうも無いという見込みからだろうが、自分の出来不出来と試験と頭の良さとは直接関係ない。どうしたら、不毛な知識を覚えられるのだろうか。それをまた、褒めるのだろうか。
試験の問題は問題でないのが問題である
勉強で扱う問題はいずれ試験で点数をとることに通じている。それが努力した正当な評価であるかのように扱われる。だれにどう評価を受けるのだろうか。主は社会である。
少し考えればわかるのは試験の問題は、問題ではないということである。それは正解とされる解答が事前にあるからである。試験の問題と解答は一体であり不可分な関係にある。問題と回答は一つの物語として簡潔しているものを、無理に分割されているのである。
正しいとされる解がある問題の問題は、それを問題とするところにある。それは現実において何かを問題視する時、試験の問題と同じように問題の中に解答を探そうとするのである。だから真の解答は見つからないのである。あっても対処療法だけなのである。それは一時しのぎであり、問題を徐々に深刻化していくのである。真の問題は問題を成り立たせる条件にあるのである。真の問題を問題と疑わない常識こそが問題なのである。
学問とは本来問いの立て方を学ぶものである。そして、問いそのものが解答なのである。自分の欲しない学術知をいくら記憶しても頭の糧にはならないのである。それに魂の葛藤のない物語いくら覚えても心の糧にすらならないのである。
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