021 つながる社会問題
夫婦をはじめとして、家族、地域、学校、会社、国、世界などといった社会がある。
それらの社会では、日々問題が発生している。
その様々な問題のいくつかは関係者の努力により解決している。
しかし少し長い目で見ると、社会問題はもぐらたたきの様で減ることはない。
前提となる条件を変えずに行う対策は、すべて対処療法となる。
条件が変わっていないので、大体において再発するのである。
何度も再発し対処されれば、問題は段々に抵抗力を増していくのである。
だから問題は対処療法をするほどに徐々に深刻化していくのである。
このような社会問題は社会の病気と見立てられる。
深刻化する病気は、いずれは専門家の知識の範囲を超えることになる。
そうして治療不可能になってただ見守られるだけになる。
そんな方向に進んでいる社会は狂っているように見立てられる。
そこで具体的に社会の情勢をみてみる。
日本においても健康保険・年金・生活保護などが出来、社会保障は増えている傾向にある。
基本的人権、フェミニズム、子供の人権等の考え方も徐々に普及してきている。
また、物資の性能は上がり収入に比べ安価になり、買いやすい状況になっている。
公害は技術の革新や法令の整備により少なくなり、住環境も少なからず良くなっている。
年々いろいろな合理的、効率的なルールができ、新しい技術も開発されている。
個人の生活は以前より安心・快適・便利さを向上させている。
少し大きな視点で見れば、どこをどうとっても社会は狂っていないのである。
いやむしろよいといわれる方向あり、多分によい社会と言えるのである。
それに社会は今後も狂うことはないのである。
それは社会を構成する個人は信用をベースとして生活しているからである。
大袈裟にいえば個人に信用がなければ、個人は一日も生きていけない仕組みなのである。
社会の構成員が狂えないのだから、社会が狂える要素はどこにもないのである。
それに社会とはただの概念である。
社会という社会はないし、国家という国家もないし、家族という家族はないのである。
残念ながら総称としての社会とは、どこにもないからである。
現実は個別具体的な各々の社会があるだけである。
なのに「社会は狂っているのではないか」と見立てるのはなぜなのか。
不安を煽れば商売になるとマスコミがそう伝えるからか。
同じ人間であるマスコミの人だけが勝手に思うことはない。
それに同調しようとするのは自身も社会が狂っているのではと疑っているからである。
その社会とは自身を映す鏡である。
頑張りには頑張りの、怠惰には怠惰を報うのが社会である。
「社会が狂っている」と疑うのは「自身が狂っている」と疑っているのである。
「自身が狂っている」とはどういうことなのであろうか。
「くる(狂)う」とは「くる(苦)し」に通じている。
漢字表記は後からのものであり、もともとは発音だけの同根のことばなのである。
自身の心が苦しいから社会が狂っていると見立てるのである。
だから、心が苦しむわけを考えれば、狂う見立てのわけがわかるのである。
「わけ」を訳とすれば言葉の尺度のことである。
すなわち価値観のことである。
また、分けとすれば、分けること。
すなわち分解・分析のことである。
心が苦しむのは無自覚かもしれないが、潜在的な欲求と違う方向に進んでいるからなのである。
社会の進んでいる方向と自身の潜在的欲求方向とが違うのである。
だから、進むほどにだんだんに離れ、不安感を大きくさせているのである。
その不安感が大きくなるほどに社会は狂っていると見立てるのである。
社会が進むとは進歩することである。
その社会の進歩とは、つまるところ役割分担・専業特化・代行奉仕の流れにある。
社会のための仕事をして、銭や効力感などを得て、それを自分のために消費することである。
つまり仕事(すること)と生活(生きること)が分離していくことである。
先程見たように社会は狂っていないし、狂えないのだから「社会が狂っている」という見立ては願望にある。
社会が狂っていてそれについて行く自身が困っているのではないのである。
社会が狂っていて欲しいとの儚い夢なのである。
それは、そうでなければ自身が狂いそうと感じているからである。
社会の病気を一つ一つ具体的にみれば、いずれも個人の病気になる。
その個人の病気を一つ一つ見ていけば、いずれも心と体の病気に通じている。
その心と体の悪くなったところは、病院などで治療されている。
しかしこれでは完全に病気を治すことはないのである。
それは体の病気は体が悪いとし、心の病気は心が悪いとして考える対処療法だからである。
いくら体や心の中の悪くなったところを直しても条件を変えない限り再発するのである。
なぜなら、心と体の病気の根は心と体の外にあるからである。
そこにあるのが頭(考え・常識・価値観・経験感)なのである。
しかし残念ながら頭の病気には病院はない。
それは古今東西、頭の病気は色々な分野の芸が治すところだからである。
おせっかいにもその一端を担おうしているのが本書である。
芸は洒落に通じていてこそであり、一応本書は洒落のなか洒落を目指しているのである。
ただ大きなおかしさは、怒りの近くにある。
だから怒らぬよう心を無くして、ただ頭で読むようにしてほしいのである。
また、あはれの近くに天晴れがあるのである。
だから殿様気分で読んでほしいのである。
体と心と頭をよくよく見ていけば、どうも悪くはないのである。
後述するが、いずれも優秀ほど病に掛かっているのである。
よい体、よい心、よい頭ほど病気になるのである。
それを結果としてよい個人としているように見えるのである。
そういった見立てをすれば社会の病気は増え深刻になるのが道理となる。
それは先ほど見たとおり、よい社会であるからである。
よい社会こそが多くの病気にかかるのである。
表にある社会のよさとは、そのまま裏にある社会問題の深刻さなのである。
再言するが、どこをどうみても社会も個人も狂ってないのである。
どの社会も個人も悪くないのである。
何もかも望むように進んでいるのである。
それが嫌なら、望むものを変えればいいだけなのである。
個人の問題はすべからく社会の問題に繋がっている。
社会の問題はすべからく他の社会の問題と繋がっている。
その全ての問題は自分自身を通じて繋がっている。
真に難儀で厄介な話である。
問題は、どれもこれも抜け駆けできない仲間なのである。
部分という部分はなく、部分は全体の中での部分なのである。
個別問題という個別問題もなく、すべての個別問題は総体問題で一つなのである。
だから、すべての問題は一緒に解決してしまうしか方法はないのである。
すべての社会問題を解く方法は、一つ一つ問題を解いていっても永遠に解けない。
それは問題を一つ一つ解くほどに、次の問題を生じさせるからである。
だから、そのうち解くことに嫌気が差してくるのである。
それで一つのほぼ正解となるが、それだけでは本としてあまりにも芸が足りない。
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