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061 すべてがバラ色の秘密

すべてがバラ色の世界があったとする。
そこでバラ色の世界を隅から隅までじっくりみる。
しかしその世界のすべてがバラ色ということを知れない。
それはすべてがバラ色で他の色がない世界と決めたのだから。

現実の中で生きなければならないので現実はなにより大事となる。
そこで現実を隅から隅までじっくりみる。
しかし、それで現実を知ることは不可能である。
それは現実の中にいるからである。

時勢の中で生きなければならないので時勢はなにより大事となる。
そこで時勢を隅から隅までじっくりみる。
しかし、それでは時勢を知ることは不可能である。
それは時勢の中にいるからである。

常識の中で生きなければならないので常識はなにより大事となる。
そこで常識を隅から隅までじっくりみる。
しかし、それでは常識を知ることは不可能である。
それは常識の中にいるからである。

社会の中で生きなければならないので社会はなにより大事となる。
そこで社会を隅から隅までじっくりみる。
しかし、それでは社会を知ることは不可能である。
それは社会の中にいるからである。

現実という現実もなければ、社会という社会もない。
時勢という時勢もなければ、常識という常識もない。
これらはすべて総称であり概念(言霊)であり実態はない。
あるのは、最初の「自身の決め」だけである。

現実をよく見たいのであれば是非もなく反現実である理想がいる。
現実と理想を比べることで現実から半歩足を出せるのである。
そうすれば、現実の外周が見えてくるのである。
それで大事としたものを大事として見ることが出来るのである。

だから時勢を見るには歴史がいるのである。
常識を見るには非常識がいるのである。
社会を見るには個人がいるのである。
二つを視野にいれて枠が見えてくるのである。

社会はそれまでの常識を打破して新しい時勢をつくり、それを現実とし進歩してきた。
これは現在の常識の多くは過去の非常識ということを示している。
歴史から見れば、現代は非常識の固まりであり、到底容認できないことばかりである
いつの時代も常識では決して歴史の真意はつかめないのである。

なにか違うと思っても、皆と違うことをするのは不安が付きまとう。
だから違わないように社会と一体になろうと新しい常識を身につける。
しかしその新しい常識が自己を分裂させ不安にさせる。
その不安解消をエネルギーに社会は少しずつ進歩していくのである。

現在アイデンティティー(自己同一性)が揺らいでいるのは、進歩しているからである。
自己同一性は歴史との一体性に見出す面があるからである。
いつの時点でも確固としてあるのはそれまでの過去の歴史でしかない。
未来はいつでも変幻自在であり、確固たる同一化の相手としては不適当なのである。

確固たる自己同一化を妨げているものこそが新しい常識なのである。
だから少し非常識な面を入れると自己は安定するのである。
そこに常識の秘められた蜜がある。
それをおおっぴらにしては秘蜜でなくなり、上手さは半減してしまう。

少し前の暮しを志向すれば、おぼろげながら、少し前の常識も見えてくる。
その常識が身につけば、歴史と自己とを同一化させる方向にいくことができる。
自己の時勢を安定化させることができるのである。
それでやっとアイデンティティが不要の時勢となる。

「少し前」といえば、おうおうにして、少し前方(未来)を意味する。
しかしそれとは逆に、少し以前(過去)のという意味もある。
どちらか一方に偏りすぎては安定しないのである。
平衡を崩しすぎてしまうからである。

バラ色をよく見たければ、葉の色こそが必要になる。
いい塩梅の葉の色はバラの色を引き立てつつも引き下がらずうまく対峙している。
その対峙があって、はじめてバラの色が見えるのである。
よく見れば、花こそが葉を引き立てているのである。

#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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