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【「憎悪」は笑顔の形で現れた】 やまゆり園事件後 最初の寄稿(前編)

ちょうど4年前、2016年7月26日に、津久井やまゆり園事件は起きました。障害を持つ子の父として、大きな衝撃を受けました。私の勤務するRKB毎日放送(本社・福岡市)は、TBS系列のローカル民放で、私は東京駐在の記者として赴任したばかりでした。

TBS総研発行の『調査情報』誌からの依頼で、私は、「11-12月号」に文章を寄せました。事件から4年後の今日、改めて個人のnoteに掲載します。

障害を持つ息子へ

植松聖容疑者は、車の中でカメラに向かって笑顔を見せていた。

逮捕され打ちひしがれる犯罪者の様子ではない。報道陣に囲まれているのを、喜んでいるようにさえ見えた。まるで英雄のように。
テレビは、何度も容疑者の笑顔を映し出し、そして供述内容を伝えた。
「障害者がいなくなればいいと思った」
私には、障害のある17歳の長男がいる。事件のむごさと、おぞましい考え方に、正直耐えられないと思った。

7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた、重度障害者の殺傷事件は、19人が刺殺され27人が負傷するという、被害者の人数から言えば戦後最悪の事件となった。
なにより、ナチスを想起させる動機が社会に衝撃を与えた。

テレビの情報ワイド番組は、報道局の出したニュース判断とオンエア素材を元に、スタジオ展開する。供述の内容、使用した映像は、報道局がニュースとして採用したものの範囲内だ。伝えるのに、何の問題もない。 

だが、あの笑顔を繰り返し見せつけられた私は、次第に脳裡でフラッシュバックするようになった。そのたびに、心の中をやすりで削られているような苦痛を味わっていた。これは、放送を通じて、多くの障害児の家族が味わった感覚ではないか、と思う。

私は福岡市に家族を残して、4月から単身東京で暮らしている。事件から2日たった夜、私は今の気持ちを書いてみようと思った。フェイスブックに1000字あまりの文章を書きこんでみた。その文章は、多くの人にシェアされ、拡散した。中国語と英語にも訳された。

障害を持つ息子へ 

私は、思うのです。 
長男が、もし障害を持っていなければ。 
あなたはもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。 

私は、考えてしまうのです。 
長男が、もし障害を持っていなければ。 
私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。 

何度も夢を見ました。 
「お父さん、朝だよ、起きてよ」長男が私を揺り起こしに来るのです。 
「ほら、障害なんてなかったろ。心配しすぎなんだよ」 
夢の中で、私は妻に話しかけます。 

そして目が覚めると、いつもの通りの朝なのです。 
言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。 
何と言っているのか、私には分かりません。 

ああ。 
またこんな夢を見てしまった。 
ああ。 
ごめんね。 

幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。 
いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。 
想像すると、
私は朝食が喉を通らなくなります。 

そんな朝を何度も過ごして、
突然気が付いたのです。  

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、 
人をいじめる人にはならないだろう。 

生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。 
お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。 
お前は優しい、いい男に育つだろう。 

それから、私ははたと気付いたのです。 

あなたが生まれたことで、 
私たち夫婦は悩み考え、 
それまでとは違う人生を生きてきた。 

親である私たちでさえ、 
あなたが生まれなかったら、今の私たちではないのだね。   

ああ、息子よ。 

誰もが、健常で生きることはできない。 
誰かが、障害をもって生きていかなければならない。 

なぜ、今まで気づかなかったのだろう。 

私の周りにだって、
生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。 
生まれた時から重い障害のある子が、いたはずだ。 

交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、 
雷に遭って、寝たきりになった中学生が、 
おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、 
嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、 
実は私の周りには、いたはずだ。 

私は、運よく生きてきただけだった。 
それは、誰かが背負ってくれたからだったのだ。   

息子よ。 
君は、弟の代わりに、 
同級生の代わりに、 
私の代わりに、 
障害をもって生まれてきた。 

老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。 
事故で、唐突に人生を終わる人もいる。 
人生の最後は誰も動けなくなる。 

誰もが、次第に障害を負いながら
生きていくのだね。 

息子よ。 
あなたが指し示していたのは、私自身のことだった。 

息子よ。 
そのままで、いい。 
それで、うちの子。 
それが、うちの子。 

あなたが生まれてきてくれてよかった。 
私はそう思っている。 

             父より 

歪んだ「憎悪」の形

私はこの後、放送局に勤務する身でありながら、あまり考えていなかったメディア体験をすることになった。記者の個人的なフェイスブックへの投稿が、テレビや新聞、雑誌など様々な媒体で取り上げられる展開になるとは、予想もしていなかった。

きっかけはネットメディアだった。投稿の翌朝、「BuzzFeed Japan」の編集長から取材の依頼があった。妻と、上司の報道局長に承諾を得たうえで、電話で話したが、その後たった一時間で記事はアップされた。そのスピードに、まず驚かされた。

次はテレビ。
友人のTBS『NEWS23』番組プロデューサーは、容疑者の強烈な言葉にテレビが引きずられていることを憂いていた。8月3日の『NEWS23』第2部(23時55分~)で、全文を紹介してくれた。
その後のスタジオで、私はキャスターの星浩さん、雨宮塔子さんと並び、短いトークの時間を何とかこなした。
この日のことを、雨宮さんは『文藝春秋』10月号に「私たちも本気で向き合わなくてはいけないテーマだと実感。まだ日が浅いですが、もっとも思い入れのある放送になりました」と寄稿している。

翌日、RKB報道部の後輩が「夕方のローカルニュースで、『23』のVTRを放送したい」と言ってきた。私は東京にいるので、電話で福岡のスタジオと結んで2分半ほど、キャスターの質問に応えてしゃべった。自社ローカルよりキー局での放送が先というのも、珍しいケースだ。

そして、新聞。
朝日の記者は、「県版の掲載で申し訳ないのですが」と謝っていたが、実は1000字を超える全文を載せるのには、出稿各部や支局間で紙面の面積を奪い合う社会面ではなく、地方版の方が自由に展開できてよいのだという。
今は地方版の記事もネットにアップされるので、長い記事を書きたい記者はあえて地方版を望む人もいるらしい。私は元々、毎日新聞で記者をしていたが、メディアを巡るネット環境が当時とはかなり様変わりしていることを実感した。

取材は、さらに毎日新聞「夕刊ワイド」(8月18日付、東京夕刊)、『AERA』(10月17日増大号)、ネットでは『GRAPE』(8月9日)『メディアゴン』(8月26日)と続いた。こうして、私が個人的にソーシャルメディアに書いた文章は、ネットと既存メディアが重なり合って報じ、相乗的に拡散していった。
この展開には、記者の自己表現の面で、今までにはない可能性も感じられた。

ネットで紹介された記事やニュースは別にして、私の文章だけでも2600回以上シェアされ、1万1000件以上(10月24日現在)の「いいね!」がクリックされた。
なぜ、ここまで拡散したのか。
あの笑顔に、自分の中にも潜む差別意識を言い当てられた気がしていたのではないか。それに底知れない恐怖を感じた人が多かったからではないか。

格差が広がり、少子化で成長の展望が見られず、閉塞感が漂う日本では、自分より弱い存在(=マイノリティ)を見つけて攻撃しうっぷんを晴らしたり、ことさら自国の優位性を語ったり(関東大震災時の朝鮮人虐殺という歴史的事実さえ、なかったものとしてしまう)する人々がいる。「憎悪(ヘイト)」は今の日本にじわじわと広がっている。

こうした中で、障害者は格好の標的となる。優生思想は、民族差別と根源を同じくするものであり、ナチスを例に挙げるまでもなく、歪んだナショナリズムの温床となる。

さらに憎悪の照準は、生活保護受給者、高齢者、重病患者などにも向けられる。
9月、元フジテレビのフリーアナウンサーが、ブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と題した記事を載せた。

戦後社会は、高度経済成長と平和主義が裏表をなして71年の歩みを進めてきた。現実主義と理想主義との併存と言ってもいい。その価値観に対して、根底からアンチを述べ始めている人々が増えていて、その先端に植松容疑者のような存在がある。

今、この社会では、せめぎあいが起こっている。

だが、まだまだ多数はヘイトに危険なにおいを嗅ぎ取っている。フリーアナウンサーはレギュラー番組をすべて降板することとなった。いわゆる「ヘイトスピーチ規制法」は国会を通り成立した。

しかし、社会の暗い底で、憎悪が煮えたぎっているのは確かだ。
「正しいことを言っている」(と思っている)のに、少数派に甘んじていることに怒りをたぎらせている。

ヘイトスピーチがここまではびこる以前、経済成長期が過ぎ去り、戦争体験者が減るなかで、社会に暗い側面がじわじわと広がりつつあることを、実は私たちは気づいていたはずだ。だが、メディアはあまり採り上げてこなかった。

私自身は2007年ごろ、知人に誘われ「日本会議」の集会に出たことがある。歴史学を学んできた身としては、都合よく縫い合わせて作り出された虚構の歴史像に驚いた。聞くに耐えなかった。

だが、その時の私は、日本会議をニュースにしようとは思わなかった。戦後社会を貫く思想と全く異なる価値観を採り上げること自体が、仕事を汚されるようで嫌だったからだ。次代のうねりの波頭を見逃したことを恥じるしかない。

見たくないと思っていたこと。否応なくそれを直視させられたのが、相模原事件だったように思える。可視化された憎悪は、笑顔をまとって私たちの前に現れた。

中編に続く)

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