マガジンのカバー画像

『雲仙記者青春記』 新米記者が遭遇した、災害報道の現場

16
記者になったばかりの新米が、突然の大災害に遭遇。1万人を超える避難住民が出ているのに、経験はゼロ。右往左往しながら地元に住み込み、5年後に災害が終わるまで見届けた記録が、『雲仙記…
運営しているクリエイター

#災害

『雲仙記者青春記』第4章 1992年4月1日、島原前線本部がぼくの仕事場兼住居になった

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年1月3日第4章公開) 職住一致の前線本部  1992年4月1日、島原市役所のすぐ近くの毎日新聞島原前線本部が、ぼくの新しい仕事場兼住居になった。  支局やその出先である通信部は社内機構の1つだが、前線本部は事件・事故が発生した現場近くに置かれる臨時の取材拠点である。通常はせいぜい1週間程度で撤収される。  しかし、普賢岳は「異例の長期災害」という枕言葉がかぶせられる

『雲仙記者青春記』第10章 被災地に生きる

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月3日第10章公開) リレー「記者の目」  牟田さんの件が一区切りすると、すぐに1994年の「6・3」連載企画の打ち合わせが始まった。  戸澤正志、加藤信夫の両デスクも例年通り参加した。議論の末、今年は雲仙取材に関わった5人の記者がそれぞれテーマを分担して、署名記事形式で連載する「普賢岳『記者の目』」という企画に決まった。  常駐したばかりで力がなかった入社2年目、

『雲仙記者青春記』第11章 1995年1月17日、阪神大震災が起きた

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年4月21日第11章公開) 大地動乱の時代  高度を下げていく飛行機の窓から、民家の屋根を覆うたくさんの青いビニールシートが目に入ってきた。  大阪・伊丹空港はもう近い。1995年1月29日午後。ぼくは西部本社から派遺された阪神大震災の第2次応援部隊の一員として、毎日新聞大阪本社へと向かっていた。  小さな火砕流が時折あるだけの静かな島原の正月は、17日午前5時46

『雲仙記者青春記』第12章 1995年4月30日、故郷

『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』 (1995年11月ジャストシステム刊、2021年5月3日第12章公開) あるべき災害対策とは 阪神大震災の発生は、災害対策のあり方を洗い直そうとしていた「復興ネットワーク」と、福崎博孝弁護士を中心とした「災害対策法システム研究会」や九州弁護士会連合会(九弁連)の活動にも、大きな影響を与えることになった。  大震災から約1カ月後の2月20日、九弁連は「阪神・淡路大震災についての緊急基本提言」を発表した。日本弁護士連