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『常習』

 目覚ましが鳴る前にその気配で起きることは、大抵の人にとって経験があることだと僕は思うのだけれど。
 僕の場合、それは毎日のことで。そして、アラームのストップボタンを押してから朝食を口に放り込むまでに1分を要さない。
 スティックパンだとか、レーズンパンだとか、ミニクリームパンだとか、とにかく小さいなんとかパンが、起床から1分以内に僕の口に放り込まれる。それは僕の手によってねじ込まれるわけで、平日の月曜日から金曜日まで休み無く続く。

 その起きがけの数分の出来事は5日間ずっと継続される。
 しかし、木曜・金曜あたりになってくると、その後の身支度においては、随所で動きと意識に緩慢さが含まれ始める。
 
 歯ブラシを手に取る。僕のは緑のやつで、彼女のは青いやつ。
 同棲している彼女は平日休みを持つ人なので、その青い方の歯ブラシはしばらくそこで待たされるだろう。洗面台の前で毎朝約3分の歯磨きをすると、1ヶ月で約90分歯磨きをしているわけで、僕は約1時間半を鏡の前で歯ブラシを握って過ごしていることになる。そりゃ自分のが緑のやつだということくらい覚える。彼女と暮らすようになってから1年ほど、僕はずっと緑の方なのだ。

 髭を剃り、頭を一旦全部濡らしてドライヤーで整え、ワックスをひねりつける。
 そして、彼女から1年前にもらった白と紺の縞々パジャマの上だけを脱いで、一度上半身裸になる。畳んで積み重なっている洗濯物の束の中から、白いものを手に取る。ワイシャツの下の肌着は白でなくてはならない。
 緩慢な動きの僕の腕が、白い半袖を通り抜けずに引っかかる。肌着を身につけるのを嫌がっているかもしれない。自分の生ぬるい動きに気づいた僕は「これは木曜日だな」と今一度、明日も仕事があることを意識するハメになる。
 今日訪問する取引先のいい匂いのする女性のことを思い出して、薄紫のワイシャツを選ぶ。あとは向かいのデスクにいる耳を隠した女性のことを考えて、ネクタイを選ぶ。小さなネコのシルエットが並ぶダークレッドのネクタイにした。
 最後に着るのはグレーのスーツのスラックス。上着は運転をするから着ない。鞄と一緒にそれを手に提げ、もう片方の手で玄関のドアが音を立てないようにゆっくりと閉める。

 車のシートに浅く腰掛けてだらだらと運転していたら、先程着たシャツの背中側がずりずりとハミ出してくる。赤信号で止まっている間に、背中と腰を浮かしてそれを直す。

 木曜日なりに重い扉を開けて、1日が始まる。
 僕は給湯室が嫌いなので、コンビニで買ってきたボトルコーヒーを半日かけて消化する。それを栄養としながら、数字と文字と言葉によって僕は動く。向かいのデスクの女性は栄養にはならない。目に入れるだけだ。保養だ。

 午後からの商談のために、コンビニに寄りながら昼食とボトルコーヒーをもう1本補充する。午前も午後も微糖がいい。無糖ではなく、甘々でもない。ボトルコーヒーには時間に関する役割を与えない。

 いい匂いのする女性のいる取引先の扉を開く直前に「ちったあ、感謝しろってんだ!」という重低音が耳に入ったせいで、扉が重くなった。僕の知っている女性が受付で眉を曲げていた。僕のネクタイは曲がっていない。車を出る前にきちんと確認したし、はみ出したシャツの裾もきちんとしまった。取引先の商談相手は性根がひん曲がっている気がした。

 日が暮れて社に戻る頃には、僕のもみあげは取り繕えないくらい乱れ始めた。向かいのデスクの女性は既に帰ったようだ。猫のシルエットが大勢で鳴いてる気がした。僕は黙って、残った事務仕事を済ませ、彼女の待つ家に帰る。

 
 玄関を開けると、彼女は部屋着で過ごしていた。今日一日それを着ていたのか、一旦別のひらひらしたやつに着替えたのか。彼女はまだ風呂に入っていなかったようで、化粧の程度でなんとなく想像が付く。
 それを横目で見ながら鞄とスーツを定位置に納め、ネクタイとシャツにも今日の役目を終わらせる。白いシャツだけになった僕に向けて、彼女からの確認が入る。

「ねえ、今日もしかして私のシャツ着てなかった?」

「え?いや、知らないけど―あ、だめだこりゃ。小さいとは思わなかったんだけどな。あ―」

 それ以上は1文字も口にしない方がいい気がした。僕は仕方なく脱いだままの白い塊を持ってゴミ箱へ向かった。ちょうど1年近く前、僕は彼女の歯ブラシを間違えて使ったことがある。その時、僕が申し訳なさそうに歯ブラシを戻そうとしたら、それを彼女にひったくられゴミ箱にぶち込まれたのを思い出した。

「ねえ、どこに入れようとしてるの?木曜だからって、ゴミ箱と洗濯機間違えないでよ。疲れてるの?」

「え?んん。ありがとう、ごめん。」

洗うという行為が伴えば、白いシャツの場合は彼女の許しが得られるらしい。

 それならば、今彼女が着ているサイズの合っていないパーカーはどうだろう。それは1年ほど前から彼女の部屋着になった。それを僕が取り違えて着た場合はどういう処置が取られるのだろうか。

風呂に入りながらしばらく考えてみたが僕には分からなかった。
 
 
 
 
(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。