『牛丼』

 海っていうのはぽこぽこ島が浮かんでて、橋をすっと渡ればぽこぽこ浮かんだ島にホイホイ行けるものだと思っていた。そりゃ日本海や太平洋がでかい海って事は知ってたけど、目に見える島が少なくて、僕の想像よりも海は大きかった。
 まあ、修学旅行で飛行機から大海を見下ろすこともあった気はするけど、自分の足で大きな海の縁に立ったのは、18歳の僕にとって初めての経験だった。

「うおおお。海じゃあ!でけえなあ」

「いや、何がすごいんよ。海はこんなもんやぞ」

「そりゃ福岡に住んどったんなら当たり前なんじゃろうけどさ。毎日こんなん見とったんじゃろ? ええなあ、羨ましいわあ」

中国山地の田舎出身の僕にとっては、島がぽこぽこ浮かんでる瀬戸内海だって大きな海だと思っていたのに。
 もう日本海ときたら、その圧倒的な大きさたるや、動物園でツキノワグマを見た後に、ゾウの足元に立たされている気分だ。

「俺は瀬戸内海の方が羨ましい。だって牡蠣うまいんやろ?」

「あ、わしは広島じゃけど牡蠣は食わんよ。小さい頃に焼き牡蠣にあたってしもうたけーな。もう怖くてそれから食えんのよ」

「まじ? 人生損しとるで、それ」

「まあ、そうかもしれんなあ。でも、ええんよ。せっかく山口の大学に来たんじゃけー、ふぐ食えばええじゃん」

大学の入学式を2日後に控えた僕らに、高級なふぐ料理屋に行く勇気はないし、そのためのお金もない。そもそも、彼とは昨日知り合ったばかりだ。
 
「さすがに俺らにふぐを食う権利はまだ無いやろ。バイトもしとらんし。しかもなんで知り合ったばっかりの人とふぐ喰いにいかにゃならんのや」

「あ、すまん。とりあえず海見るの飽きたけー、飯食おうや」

 適当にバスに乗ってやってきた港町で、食べ物屋さんを探す。
 僕も彼も、知らない港街へ来て、何を食べればいいのか。僕らは、とりあえずメインストリートっぽい雰囲気の道を探して歩いてみることにした。


『新入生オリエンテーション』なる謎の食事イベントが開催されていたので、早々と引っ越してきて暇を持て余していた僕は、「うぇーい」って言い出す奴がいることは分かっていたが、謎のイベントに参加した。暇すぎる時間には耐えられなかったのだ。まだホームシックではない。
 案の定、「うぇーい」って言い出す奴はいたけど、「うぇーい」って言い出さない奴もいた。逆に「…………」みたいな人もいたけど、僕はどっちでもない彼に決めた。中庸である。

 彼は「うぇーい」って言い出さない割に、声を掛けるのは得意な人間らしい。ただ、話しかけてくるのはいいが、話題が唐突だ。

「なあ、二宮に似とるって言われたことない?」

「あ? わしが? 嵐の? まあ、言われたことない、とは言えんな」

「じゃあ、二宮やな。今日から二宮や」

「いや、なに言うとるん。わしは村田じゃって」

もちろん悪い気はしていない。ちなみに、僕のことを二宮と言ったのは、公園で遊んでいた小学低学年頃の女の子だけど。つまり、まあ、僕が二宮くんに似ているかどうかの判定基準については、ひどく曖昧だ。

「なあ、二宮。」

「あ? なんじゃ?」

「な?」

「は? いやいやいや、そしたらそっちだって、亀梨じゃろ。でも、なんかむかつくから、亀な。亀さんな」

 亀さんは歩くのが早い。
 適当に歩いてみた港町のメインストリートっぽい場所は盛り上がりに欠けた。いや、正直、知らない街で、知らない亀と、大きな日本海を見たのでもう疲れていた。だから、僕は亀さんが歩く半歩だけ後ろを進んだ。

 亀さんは突然直角に曲がる。
 見慣れた全国チェーンの牛丼屋だった。もう何でもよかった。

 注文するとすぐに運ばれてくる所が牛丼屋の利点だ。会話内容もおぼつかない僕と亀さんにとって、目の前にすぐに置かれた牛丼が時間の埋め合わせにちょうどよい。
 亀さんに箸を渡すと、左手で受け取った。

「あれ? 亀さん左効きなん? 昨日見たはずなのに、なんかもう忘れとったわ」

「あ、そうやで。俺は、飯は左で、書くのは右、投げるのは左やな」

「は? 野球やっとったん?」

「え? 言っとらんかったっけ?」

昨日の集まりで見ていたはずの利き手は覚えていなかったが、野球の話をされたら僕は覚えていたはずだ。

「言っとらん。わしも野球しとったけーな。亀さん、ポジションはどこ?」

「俺はピッチャーや」

「まじか」

もしかしたら、「うぇーい」の音に紛れて僕たちは重要な話をするのを忘れていたのかもしれない。思えば、福岡やら石川やら鹿児島やら、そこらにいる人たちと方言の話ばかりした記憶はあるが、なぜか野球の話はしなかった。
 これは僕の予想に過ぎないが、同じ高校の野球部で数学科に入ったのが僕だけだったからだ。数学科の野球経験者は希少種だと勝手に思い込んでいた。

「ほんで、二宮はポジションどこなん?」

「あー、まあ、わしもピッチャーなんよな」

「まじか。」

 大学では野球なんてやらないつもりだ。僕は高校野球でお腹いっぱいだった。あんな馬鹿みたいな練習は、もう二度としたくない。

「亀さん、左利きでピッチャーとか。そんなん絶対エースだったじゃろ?」

「まあ、背番号は1を貰っとったよ。ほんでもな、俺は2年の時に腰が悪くなったんや。1試合丸々は投げられん。大体5回くらいから腰がヒャーッてなるんやぞ。ほんで、二宮は?どこ守っとったんや?」

「わしは守っとらんよ。投げとったけーな。わしもピッチャーよ、ピッチャー。まあ、背番号は1だったけど、アンダースローだったんよ。おかしなエースよな。田舎の高校だったけーな、投げる人が他におらんかっただけよ」

そんな僕からしたら、左のエースなんてもう憧れの世界だ。普通とは違う投げ方で変化球ばっかりぽいぽい投げてた僕なんかとは違う。亀さんは僕よりも遙かに速い球を投げるのだろう。

「おい。二宮、牛丼食ったら帰ろうや」

「ああ、ええよ。わしは海見たけー、もう満足したわ」

「そうやな。ほんなら、帰ったら腹ごなしにキャッチボールやな。グローブ、一人暮らしのアパートには持って来とるんやろ?」

僕は今日から亀さんに嘘をつかないことにした。

「ええよー。キャッチボールは好きじゃけーな。なあ、でもピッチャー同士で、どっちがキャッチャーするんじゃ?」

「そりゃ、どっちもよ。俺らどっちもがピッチャーや」

亀さんはそう言って、表面が冷めた牛丼をかき込み始める。僕はそれを見て、牛丼を口の中に勢い良く放り込んだ。

 
 
 
 
(おしまい)


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