見出し画像

『踏みつける秘書』

「私、試してみたかったんです」
「なにを言っている?」
「なんだか、人を踏みつけたくなくるときってあるじゃないですか」
「いや、ないな」
 バスタブの横に全裸で寝転ぶ信彦を踏みつけているのは、秘書のキョウである。信彦を踏みつけるキョウはスーツ姿で、スカートのまま信彦を見下ろしている。

 9月、タイル張りの床は体温を奪う。
「背中が冷たいんだが」
「はい」
「そろそろ満足したろう?」
「いえ、だめです。まだ何も分かりません」
「君は何が知りたい? そろそろ、君も脱げばいいじゃないか」
 キョウは質問に答えず、信彦の腹部の上で足を上下させる。少しだけ体重を乗せてみるなどしているようだが、腹筋に力を入れている信彦は通常どおり会話ができた。

 キョウは上下させていただけの足を、一旦10センチほど浮かしてから、踏み下ろす。
「んぐ」
 思わず唸る信彦の眉間に2本ほど皺が入る。
「おい。もういいだろ? 君は何が知りたかったんだ? 自分がSかMか、判断したかったのか?」
 キョウの足が止まる。
「いえ、たぶん、違うと思います」
「どうだろうな。実際、その下着の中は濡れているんじゃないのか?」
「ええ。まあ、可能性はあります」
「俺はね、裸になってまで何かを隠されるのが、好きじゃないんだよ」
「何も隠していません、私は」
 乗せたままの足に体重がかかる。キョウはストッキングを履いたまま、一緒くたになっている親指と人差し指を信彦のみぞおちに這わせる。ぐにぐにと登るストッキングの指先は、単細胞生物に知能が埋め込まれたのではないかと疑うような、生々しい動きだ。


 夕刻、キョウはミスを詫びた。
「社長、申し訳ございません。A社の過去の資料に誤りがあって──私が目を通した時に気づけばよかったんです。私のミスです」
「気にしていない。前任者が資料の定期チェックを怠ったからだ。君はそれを引き継いだだけだろう?」
「はい。資料を作ったのは前任者ですが、私が丁寧に確認していれば済んだはずです」
「もういい。運転に集中させてくれ。俺はね、商談後の運転が好きなんだ。だから、ドライバーを雇わないし、君はそこに座ってる」
 助手席に座るキョウは、膝下に置いてある鞄の方を見つめ何も喋らない。腿の上に置いた手の行き場はどこにも無く、時折顔を上げて、前方車両のナンバーを確認する以外にはすることがない。

 社長室の秘書として部署移動してから、キョウは度々食事に誘われた。懐が傷つくことはなったが、味のしない料理を食べ、領収書を財布に入れるまでが、キョウにとっての業務だった。
「あの店、悪くなかったな」
「はい」
「このあと、ホテルに行かないか?」
「それは業務ですか? プライベートですか?」
「どっちでもいい」
 本当にどちらでも良いのだろう。信彦は何も、理由も、意味も、考えていない。
「なら、一つお願いがあります。踏ませてくれませんか?」
「なんだ? それは」
「無理なら、結構です。個人的な問題なので」
 怪訝な顔をしたが、踏まれることを承諾した信彦に断りを入れ、キョウは一旦席を立つ。
 トイレの個室に入り、携帯を開く。キョウの前任者は資料をきちんと整えて退職していた。
 そして、「もし何かあったら、私は大丈夫だから、いつでも連絡してください」と、プライベートの連絡先を教えてくれていた。

(お願い──いえ、すみません、どうか、電話に出て下さい──)

 キョウの視線の端に、上を向く信彦の陰茎が映る。
「興奮してるんですか?」
「ああ」
「やめてくれませんか? 私は、ただ踏みたかっただけなんです」
「君は俺を踏みつけて、何かを確かめようとしている。ただな、俺が興奮するかどうかは、俺の中の話だ」
 信彦の視線が、スカートの中を捉えていることにキョウは気づいていた。最初こそ腕を使って両目を隠してはいたものの、会話の最中に腕の隙間からチラチラと覗き始め、いつの間にか腕を外していた。

 朝、キョウは鞄を膝の上に置いて助手席に座っていた。運転中でもそれ以外でも、信彦の記憶力は曖昧で、一人では何も思い出せない。考えようともしない。
「あれ、西藤商会の社長って、去年交代したんだったかな? 今は会長? 記録、残ってるか?」
 持ってきていた資料を引き出そうと、膝の上の鞄のファスナーを引いた。資料の重要な部分の端には、前任者により赤色のマジックが引かれている。
 西藤商会についての記載はすぐに見つかった。

 資料の端の赤色の部分をめくったあと、キョウは足元に光る赤いランプに気づいた。車内灯か? と思ったが、周囲を照らすほど明るくはない。それに走行中だ。車内灯が点く理由がない。
「社長、ちょっと待ってくださいね。引き継いだ資料なので、まだ読み込めていなくて──」
 キョウの視線は、資料の先にある自身の足元に向かっている。パラパラと資料を前後させながら「あれ? これも違うな」と首を傾げる。

 足元の赤いランプの周辺をよく見ると、カーペットの端が少しめくれており、そこには一つの目……いや、レンズがあった。 


「もう、帰っていいですか?」
「何を言っている。君が首を縦に振ったんだろう? さっきも言ったが、こっちが脱いでるのに脱がない女が、俺は嫌いなんだよ」
 勝手に脱いでおいて何を言っているのだろうか。キョウには全く理解できない。
「うんざりしました。脱いだフリをして何かを隠している男が、私は嫌いです」
 キョウはそれだけ言うと、踵にぐっと体重を掛けた。
「んぐっ」 
「来週で退職します。退職願と必要書類は郵送します。退職日までは有給を使用します。この様子はあそこのスマートフォンで別のPCに生中継してます。もちろん、PCでは画面録画もしています。前任者が優秀な人で助かりました」

 信彦は上半身を起こし、キョウのストッキングに指を掛けようとしていたが、完全に動きが止まった。
 キョウは足を下ろす。
 信彦から離れ、しかし尚、見下ろす。
「人を踏みつけたくなって試してみましたが、何も得られませんでした。怒りを通り越して、時間の無駄を感じただけです。それでは」

 キョウはホテルを後にし、最寄り駅のトイレでストッキングを脱いだ。ビニール袋に入れ、コンビニのゴミ箱に放る。
 人を踏みつけるくらいでは、何も、確かめることはできなかった。



(おしまい)

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。