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〈雑記〉キンモクセイの香り?

 はい。こんにちは。
「キンモクセイの香り」ってすぐに思い浮かびますか?

 僕としてはですが、キンモクセイの香りを何かの匂いに例えようにも難しく、何かの例えなしに説明するのも難しいように感じるんです。頭の中で香りをイメージしようとしたときに、特にキンモクセイに関して難しく感じてるんです。
 まあ、これは僕がキンモクセイの香りというものを正確に認識したのが35歳になった今頃だからというのもあると思います。キンモクセイの香りって、僕みたいな走り回り田舎小坊主だった人間からしたら、ほんとにどうでもよくて、嗅ぎ分ける必要がなかったんでしょう。

 だから「キンモクセイの香り」って言われても、匂いも、そもそもキンモクセイという植物の姿形すら思い浮かべることができなかったんです。
 じゃあ、なぜ僕は35歳になって今更キンモクセイの香りを認識したのか。

 必要だったからか。
 いや、そうではないでしょう。ただ単に認識したタイミングが今だっただけ。タイミング、運、偶然、そんなものに過ぎないと思います。
 野に咲く花の香りの一つや二つを知ろうが知るまいが、現状の僕に大きく変わりはない気がしているのです。

 ならば、キンモクセイの香りが僕の行動に影響を与えるとしたら、いつなのか。

 それはキンモクセイの香りが僕の周りに存在しない世界になったらでしょうか。あるいは、僕の鼻や脳が嗅覚を完全に失った時かもしれません。
 そんな未来にいる僕は、キンモクセイの香りをなんとか探し出そうとして旅に出るかもしれません。はたまた植物学者にできる限りの寄付をするかもしれません。
 それだけでなく、今の僕からしたら想像もつかないような行動をとるかもしれません。

 いずれにせよ、何かが失われてから何かに気づくこともあろうかということです。

 だからといって、生きながらに常に身の回りのもの、五感の全てへの受信を最大限にして吸収し、記憶することはできないでしょう。だってそこらじゅうに本当に情報が多すぎるし、とても細かく存在しているから。
 しかも、今の状態で必要でないと自分の脳が取捨選択した情報であれば、なおさら記憶しておくことは難しく感じます。

 ただね、僕は思うんです。
 失ったあとに思い出すものの全てが必要だったかどうか。

 いやいや、そんなものは判断付きませんよね。それに、現状に必要がないものは、そのとおり現状に必要がないんです。現在にいる僕には未来の判断がつきません。必要かどうかすら基本的には曖昧だと思うんです。
 ただ、未来を見越して必要だと判断するものがあれば、それは現状でも同じく必要なものだと思います。だから、あなた方が今「必要ない」と判断しているものは、真に今時点では必要ないはずなんです。

 それを後になって「思えば大事だった」とか、「必要なんならもっとこうしておけば」とか言っても意味がないんですよね。そこにあるのは自己陶酔か自己防衛か――何らかの自己のための感傷だけ。
 何かが自分にとって必要だったかどうかなんて、後からジャッジする意味はないんじゃないかと思うんです。というかそもそも、ジャッジすること自体に意味がない。

 実際のところ、感傷のみ単独では人は変わらないと思います。存在と影響の認識があり、それを防ごう・変えようとして行動する。
 もちろん、感傷も人間特有の、人間らしさのあるものだと思います。僕が言っているのは「感傷のみ」では人は変わらないだろうということです。決して感傷自体を否定しているわけではありません。
 だから、後になって何を思おうが何を感じようが、それはそれで発生し得る。しかしながら、感傷をもってして、感傷のみで自分の行動を発動させているものないんて無いんじゃないかな、と僕は思うのです。

 それこそ、小説には感傷の記述も含まれるでしょう。一方で、正式な論文において、論説を積み上げるためには感傷の記述は不要なんじゃないでしょうか。

 ただね、論文だけでは人は変わりません。論文の内容が実生活や事件と結びつき、自己のエピソードとなることで人は問題を認識し、行動を変えるでしょう。
 まあ小説も同じようなものですが、少し様相が違う気がします。そこに語られる内容には、感傷も(小説の中の)事実も存在します。それらを主人公なり登場人物が認識することによって行動するんです。

 んん、はい。もう少し噛み砕いて書こうかと思いましたがやめましまします。

 だって、こんな雑記では他人は変わらないから。いや、あの別に他人を変えたいがために書いているわけではないんです。ただ、無意味だな、と思ったので。無意味なことを2000字くらい積み重ねたので、僕は満足しました。

 どこの媒体のどこの何であろうが、有象無象であり、僕にとっての去年までのキンモクセイの香りなので。
 いや、道端の雑草にすらなり得ない僕が消えるかどうかを、名のある花の香りに並べて考える意味すらないですね。

 

どうして どうして こんな簡単な
ことをいつも気づかずに
通り過ぎてしまうのか
せめて せめて さよならの前に
本当のことはいつも何かを失ってから
『金木犀の花』キンモクセイ



 大学生の頃に、キンモクセイの香りを知らずして聴いていた「キンモクセイ」というバンドの曲です。僕は何も知らずにキンモクセイのキンモクセイの曲を聴いていたということです。

 は? 意味がわかりませんね。


 おしまい。またね。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。