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ソジメン、『怪物』みてきた。

こんにちは。SOGI研メンバーの令です。

つい先日、是枝裕和監督、坂本裕二脚本の映画『怪物』を心してみてきました。実は僕個人のnoteで感想を投稿したのですが、SOGI研をフォローしてくださっているみなさんにもぜひ読んでいただけたらと思い、こちらのアカウントにも掲載することにしました。ぜひ観賞後に読んでみてください。



この先はネタバレが含まれるので、知りたくない人は引き返してほしい。

でも観る前にこれだけは知っておいて!この作品を見ることは、クィアな人々やアライにとってとても辛苦なものになりえる。それでも観たい方は、当日の自分の体調と気分を確認して、しっかりと心構えをしてから観賞に臨んでほしい。

また僕は、予告篇は見たものの、この作品が賛辞と批判の渦中にあること以外ほとんどなんの情報も得ずにこれを観に行った。個人的な解釈と感想をそのまま書いているので、「製作者はこう言ってるから、それは違うよ!」とかいうナンセンスな批判はやめてほしい。僕の第一印象は僕のものだからね。





これは、クィアではない、クィアという言葉さえも知らない人々が、クィアな要素を楽しむために作られたエンターテイメントショーだ。


「怪物だーれだ。」


作品内でも予告篇でも、印象的に繰り返されるこのセリフ。この映画はひとつのストーリーを、早織(湊の母親)、保利先生(湊の担任の先生)、そして湊自身という、三人の登場人物の視点を元にした三構成で描いていて、全体を通して物語の中の「怪物さがし」を観客に促している。

子供を守りたい一心で何度も学校に乗り込む母親、問題と真摯に向き合わない学校、子供に暴力をふるい罵倒する父親、地位のために孫の死を利用する校長、そして、大人にとって不可解な行動をとりだす子供たち。

物語は静かに淡々と進む中、観客の胸の中には要所要所で少しずつ、違和感や不安が募る。すべての登場人物に対して、疑心暗鬼になってくる。こいつが怪物か、いや、あの人かもしれない。見る視点によって、だれが本当の怪物なのかわからなくなってくる。

結局、だれが怪物だったのかは明確に示されない。本当の怪物は、独断と偏見でだれかを怪物だと決めつける社会だとかなんだとか、、、

この一貫した「怪物さがし」のテーマが、この作品の醍醐味であり評価されている要素のひとつであるように感じる。

「クィア」と「怪物」


僕は「怪物」「豚の脳ミソ」などという表現は、この作品の中で「クィアなアイデンティティ」にも当てられているように感じた。作品内で一時的にでも観客にそう思わせるような要素があった。

ほかの「怪物」のように思われる要素は、人の死やいじめ、暴力など、明らかな加害性と結びついている。しかし、「クィア」であることを一時的にでもそれらと横並びに置くことは、視聴者にどのような印象を与えるだろうか?

また、「クィア」は実際に「怪物(理解できないもの、加害性のあるもの)」として表象されてきた過去がある。トランスジェンダーは病気だ、変態だ。ゲイはAIDSの根源だ。彼らと同じ風呂やトイレを使うと襲われる。そうやって差別意識と偏見を植え付けてきたことは、映画表象にも責任の一端がある。

「怪物さがし」のハラハラドキドキ要素に「クィア」を含めてしまうことは、また誤ったクィアイメージの歴史を繰り返すことになってしまうのではないか。

また、校長が湊に、言葉にできない気持ちは音にしちゃえ!てきな考えでトロンボーンを吹かせる場面も、また「寝た子は起こすな」の考えが反映されていると思った。

湊はずっと、言わせてもらえない気持ちを行動で表しているのに、なにが音にしちゃえ!だ。わざわざ嘘をついてしまったと告白しているのに、反省しているのに。この時が、ちゃんと向き合えるチャンスだったのに。

このトロンボーンの音、湊の視点ではないシーンでは不安を煽るような音として用いられていた。まさに、小さな怪物の悲しい咆哮とでも言うかのように。やっぱりクィアの要素に怪物感漂わせてるやんけ。

そして全体として、いじめ、犯罪、家庭内暴力、教育現場の不透明性、メディアリテラシー、子育てなど、多くの社会問題に触れすぎて、クィアの存在がより可視化されにくくなっているようにも感じた。

LGBTに特別フォーカスした映画ではないと言っても(物語の真相で『同性愛』にスポットライトを当てているにも関わらずそれは通用しないと思うが。)、クィアの表象に関してはずっと問題になってきたわけだから、これをひとつのテーマとして取り上げる以上もう少し、いや、もっともっと丁寧に扱う必要があったのではないかと思う。

利用される「クィア」な要素


この映画は、予告篇を見ていても気になるところが多かった。個人的な感想を言うと、切り取り記事レベルで悪質。予告で見て受けていた印象ほど、特に母親の行動はとち狂っていなかった。「子供たちが消えた。」の表現もどない?音楽もなんか奇妙なサスペンスというか謎解きゲームみたいな、内容をミスリードさせる引き金として機能しているように感じた。

そして最も驚愕だったことが、予告内でクィアの要素に触れている描写が一切ない。その理由にはおそらく次のふたつが考えられる。

  • クィアな要素を予告で表現することで、観客の幅を狭めてしまうから。(意味わからんけど)

  • 子供たちの不可解な行動の真相をネタバレすることになってしまうから。

ひとつめの理由に関しては、「LGBTの映画ではない」って発言の理由にもあてはまると思う。表向きにはそうではないって言うだろうけど。「LGBTの要素が少しでも入っている映画」というだけで一部のヘイトは閲覧予定リストからこの作品を除外してしまう。それを避けるために多くの人が目にする予告ではこの内容を流さなかったのではないだろうか。

ふたつめの理由に関して言うと、湊の不可解な行動、湊や依里の父親による「お前の脳は豚の脳ミソだ。」との発言、そして、嵐の夜に2人がいなくなってしまうこと、それらの原因は第三章まで明らかにされない。そして第三章、湊目線のストーリーになってはじめて、そのすべての原因がふたりの「同性愛」と考えられる関係によるものだと明らかになる。これが皮肉にもワクワク謎解きの答えとして用意されているので、予告で知られるわけにはいかなかったのではないか。

またもうひとつ気になった点として、予告篇では湊の不可解な行動に対し、「壊れてゆく息子」と表現されていた。壊れてゆくって、どういう意味?正直、映画内で湊は少しも壊れてなんかなかった。自分のクィアな一面に気づいていくことが、「壊れてゆく」ってこと?

不可解な行動が続いて続いて続いて、、蓋を開けてみたら、そっか、その謎は「同性愛」だったんだ!だからおかしかったんだ!という構成は、やはり当事者に対する偏見を助長するものになるだろう。

それに、同性愛は「普通」じゃないから、マイノリティだから、視聴者はその謎の答えを予測できないだろう、その真相に驚くだろうというサプライズ要素に「クィア」が使われているような気がして、個人的には不愉快だった。

彼らに「不可解」と思われる行動をさせて、その理由を明らかにさせない原因は「同性愛」にあるのではなく、「同性愛を怪物化させる社会」であることを製作側はしっかり主張しなければならないと思う。


語りの補綴として消される「クィア」


ほんで、また死ぬんかい。

子供たちが死んでしまうということは明らかには描写されていない。しかし、

  • 早織と保利先生が彼らの名を叫びながらすぐそばを探しているはずなのに、秘密基地(?)から出てきたふたりと出会わないこと。

  • ついさっきまで大嵐であったはずの空が急に晴れ渡り、変に明るいキラキラした草原を、目的もなくふたりで駆け出していること。

この2つのシーンのちぐはぐさから、彼らは死んだあとの夢をみているようにも考えられる。現実世界では異常者扱いされ、自由に人前で一緒にいられなかった彼らが、理想の世界で幸せに暮らすというシーンで、不憫だ〜とか健気で美しい〜とか言って、観客は涙を目に浮べるのだろう。(ケッ)

現実なのか、死んだあとの夢なのかというところであやふやにし、その結末を視聴者の考えに委ねるというのは、割とありがちな物語の終わり方である。とくに日本のクィアを扱った作品にはとても多く見られる。

「語りの補綴」という言葉は、つい最近映画学の授業で学んだ。まさに、伏線回収の駒として使われる同性愛の要素。そして結局、彼らが自分の思うままに生きてゆける未来への具体的な道は描かれず、綺麗な少年の若き日の想い出として消されてゆく。

それを''怪物''ではない"人々''は、きれいだ、きれいだ、なんて賞賛する。君たちの大好きなトイレや温泉問題では、彼らを分別なく「怪物」に仕立てあげるのにね!!

クィアはいったい、何人殺されればいいんだ。


怪物、怪物よ。本当のカイブツは、クィアを''大衆の感動''のために、''全米を泣かせるため''に食う、お前らなんじゃないのか?



とまあ、僕が見た感想を新鮮なまま率直に、かなり強く書いてしまった。ひねくれてるって思われるかもしれない。

この作品は芸術としては素晴らしいと思う。俳優陣、とくに子役の演技はとても繊細で、感情の移ろいが巧みに表現されている。映像も大変美しい。脚本もさすが坂元裕二。視聴者にとって恐ろしくも身近に感じてしまう事件(悲惨ないじめや孫を車でひいてしまうなど)と、得意の会話劇と抑揚で観客の心を見事に鷲掴みにしている。

しかし、そんな素晴らしい画だからこそ、観客は批判的に見ることを忘れてしまう。ただただ感動を受け入れて、クィアの存在を不可視化させてしまう。綺麗すぎて、身近にいるクィアの存在とは繋がらない。だから、彼らがどうすれば生きていける社会になるのか、考えるきっかけにはならない。この映画が話題になり、興行収入をあげ、名目上日本のクィア映画の傑作・成功例になってしまうことに、大きな不安と恐れを感じる。来場者がどんどん増え、より多くの人の目に触れるのを実感する度、その断片的でしかないイメージ、メッセージの拡散性に脅威を感じる。

いま、どんどん大きくなる、ほんとうの「怪物、だーれだ。」



以上が、僕の個人のnoteに投稿した『怪物』を観ての感想です。
人それぞれさまざまな見方があると思うので、僕の感想は数ある読解方法のうちのひとつであると考えてください。

みなさんそれぞれの視点でこの映画を楽しんでいただければなと思います。

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