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映画『そばかす』2度目の鑑賞を経て【Movie Night🌙】

みなさんこんばんは。SOGI研の令です🌙

7月10日(水) 17時から金沢大学中央図書館AV室にて、映画『そばかす』(玉田真也、2022)の鑑賞会を行いました。

(作品情報はこちらからご覧いただけます⇩)

参加者はおよそ15人ほどでした。予想以上にたくさんの方にお集まりいただけて本当にびっくりしたし、とても嬉しかったです。(過去にはSELFメンバー4人だけで行ったこともありました😆)

映画鑑賞後はみんなで感想共有。今回は急遽私がいつもお世話になっている穣さんが駆けつけてくださいました。実は穣さんのお姉さんが、本作の主人公である蘇畑佳純(そばた・かすみ)さんのモデルになっているのです。作品が出来上がるまでのエピソードや、ご家族としての視点についてもお話してくださいました。

今回私は映画館で1度拝見して以来、2度目の鑑賞でした。自分なりに2度目の作品を観て気づいたことや、感想共有の場での様子についてもちょこっとシェアしたいと思います。(ちょこっとどころじゃない僕のnoteいつも通りクソ長いです)


ラーメン屋とのシーン意外とあっさりしてた

鑑賞中初めに思ったのが見出しそのまま、ラーメン屋とのシーンが意外とあっさりしてた(ラーメンだけに)。僕はもうこのラーメン屋とのいざこざがものすごく強烈に頭に残っていたんです。

ラーメン屋とのシーンてなんやねんと思ってらっしゃるそこのアナタにご説明すると、まず佳純は母によって強引にお見合いの場に連れていかれます。そこでお見合い相手だった人が、佳純が一度食べにいったことがあるラーメン屋の店主だったのです(店主かは知らん)。

そのラーメン屋とお互いに「今すぐ結婚したい訳ではない」という点で意気投合し、ふたりは仲良くなります。佳純はラーメン屋に来たついでに店の片付けを手伝ったり、麺の湯切りを教えてもらってそのままザルを持って帰ったりします。

そしてふたりでひとつのバイクに乗り、少し遠い地方のラーメン屋を訪れてホテルに宿泊した際、ラーメン屋が佳純の部屋に来ます。一緒に飲んでいた流れでキスを迫られた佳純はそれを拒否し、ふたりは互いへの感情の相違を認識します。佳純は自分が「誰にも恋愛感情や性的関心を抱かない」ことを説明しますが、ラーメン屋は「男として見れないってことだ」と落胆します。「勘違いさせたこと」を謝り、一緒にいられる道を探そうと説得する佳純を置いて、ラーメン屋は部屋を後にします。

1回目の鑑賞時はこのシーンに身に覚えのある体験が多すぎて、全身がブワーッとなりました。私は仲が良い友人との間ではなく、そこそこの人との間でしか経験してこなかったので、佳純ほどのダメージでなかったですが。それにあの流れでカミングアウトして謝って元の関係に戻れるように説得してって、次から次に言葉が出てくるのはすごいと思いました。それだけ佳純にとってラーメン屋が大切な存在になっていたということでしょう。(私は一度そういう目で見られてしまったらどんなに仲が良くてももうムリです)

だからこそこのシーンがとても衝撃的で印象的で、ストーリーのもっと後ろの方までながーくあったような気がしていたのですが、意外と前半の短いステップであっさり終わって、それから先の新たなキャラクターとの関係性、佳純の人生がたくさん描かれていたことに心底ホッとしました。

海のような、決まった形のない気持ちを愛する

今回2回目を観るまで忘れていたのですが、この作品の中で「海」や「川」の存在はとても大きな役割を示していると思います。

佳純は母に結婚を強く勧められて嫌気がさしたり、ラーメン屋との関係が恋愛感情によって絶たれたりしたとき、ひとりで海を見にいきます。

海は形がなくて型にはまらなくて、それでもみんなから存在を認められていて、必要とされていて、当然のようにそこにあって、ひろーいからだでたくさんの生き物たちを包み込みます。(海のそゆとこ、ぼくだーいすき)

自らが抱く他者に対する気持ちや愛情が、既定の「恋愛」「性愛」などという枠に当てはまらなくても、ただ確かにそこにはあるわけで。それでいいんだけどなー。自分で自分の本当の気持ちを見つめたいとき、大切にしたいときに、佳純は海を見にきているのではないかと考えました。

その海で真帆と出会ったことで、真帆が佳純のセーファースペースをつくる存在になることも納得です。キャンプで真帆が川に飛び込んだ後、佳純も一緒に飛び込むシーンは、いままで遠くから見つめるだけだった自分の気持ちに正直に生きてみることふたりならこの気持ちを大事にしたまま一緒に生きていられるという人生の暗示だったように思えました。

「家をたてる」ことは「生活をたてること」

また、「家をたてる」というのはそのまま「人々の生活をたてる」ことと同義に扱われていたような気がしました。

特に佳純と真帆が一緒にテントをたてようとするも上手く建てられず、他のキャンパー(後にしつこく「彼氏がいるのか」「好きなタイプは」などと話を振られる)に手を差し出されるシーンでは、「ふたりではじめようとした生活」→「恋愛的な出会いを求める他者(恋愛至上主義)に介入される」という流れがかなり露骨に描かれていました。

その後ふたりは本当に同じアパートの一室を借りて、テントよりもずっと頑丈なふたりでの生活を手に入れようと試みるわけですが、こちらも結局真帆の「結婚」というより強固な家族制度によって破壊されます。

一緒に生活する話をしているときの佳純と真帆の表情は明らかに異なっています。佳純はいつも本気で、やっと「自分が自分のままで誰かといられる居場所を手に入れられるかも!」と期待の眼差しを向けているのに対し、真帆は少し冗談半分というか、「おもしろそう!」と同時に「でも永遠に続くわけじゃない」という心持ちで返事をしているように感じられました。

でも、もし真帆にとってこれが少しでも不本意な結婚だったとするなら、本心で佳純との未来を、佳純よりずっと夢見ていたのかもしれません。真帆がクィアという説も少し頭をよぎったけど、どうなんだろう。

このシーンは見ていて本当に辛かったです。僕はまだ(ギリギリ?)「結婚」が遠い存在のように感じられていて、「シェアハウスできたら楽しそう」「将来一緒にカフェを開けたらいいね」と話せる友人が何人かいます。しかしどこまで誰かといる未来を期待してよいのか、だんだん冗談半分で話すのもしんどくなってくる気持ちがじわじわと拡がります。

この映画タイトルが『そばかす』でよかった・・・!!

そして『そばかす』というタイトルについてですが、私は勝手な解釈をして「よかったー」と思っているんです。もちろん主人公の蘇畑佳純(そばた・かすみ)からきているのでしょうが、私はアロマンティック・アセクシャルの性質(と言って良いのか?)を「そばかす」という言葉で表現しているのではないかと考えました。

私たち人類って、「彼氏/彼女いないのー?」とか聞かれるじゃないですか。

「いないです。」
「なんで!?いそうなのに!」

これまでの人生、この会話を何十回繰り返してきたことか。いるいないじゃなくてその概念そのものが存在しないのに、なぜだか「いない」って言わなきゃいけない。その度に何か自分に欠けている部分があると言われているようで嫌でした。

ですが、この「そばかす」。「そばかすのある人」は実際のところわからないけれど、自分の周囲の人々を見ると比較的マイノリティなのかなと感じます。コンテクストは全く異なるけど、少数派という点ではAセクAロマと同じ。でも、AセクAロマが「ない」マイノリティなのに対して、そばかすは「ある」マイノリティなんですよね。

AロマAセクは何か欠けているのではなく、恋愛感情・性的関心を抱かないということがある、存在している。「ない」ことが「ある」んです。それが「そばかす」という表現によって示されている気がした。伝わるかな・・・・・・。

それが私にとってはとても嬉しくてありがたかったのです。

「Aロマ・Aセク」の名前を出すこと

やっとここからは感想共有の場ででたアイデアについてシェアハピします。

一番いろいろな意見を聞くことができたのは、この映画で「アロマンティック・アセクシュアル」の言葉が一度もでてこなかった件についてです。

名前を出すことで起きる良いこととしては、次のような意見がありました。

  • 映画を観てこのセクシュアリティの名前を知った人が、後からGoogle検索することができる

  • 佳純や天藤が特別な存在なのではなく、その背後に同じセクシュアリティを自認するたくさんの人々がいることを可視化できる

それに対し、名前を出すことで生じる恐れとしては以下のようなものがありました。

  • 佳純のキャラクターがアロマンティック・アセクシュアルの人々を代表する存在のように認識され、ステレオタイプを生むのでは

  • 社会の現状、アロマンティック・アセクシュアルと言ってすぐに理解されないケースが多く、二重に否定される恐れがある

ドラマ『恋せぬふたり』(吉田恵里香、2022)でもアロマンティック・アセクシュアルのキャラクターが出てきますが、こちらの作品では恋愛に無関心なことで周囲との会話に違和感を覚える主人公が、後に同居人となるキャラクターのブログを通して「Aロマ・Aセク」という言葉を知るシーンがあります。

それぞれの作品が、どのような人々どのような影響を与えることを目的として制作されているかによっても、言葉の使われ方、キャラクターの生活の描かれ方は変化します。

でも確かに思ったのは、私の個人的な経験からすると、普段からSOGIについて話す友人以外に自分のセクシュアリティの話をする際、Aロマ・Aセクのような用語は出したことがありません。そもそもほとんど話す機会がないけど、言っても絶対「何それ?」なので言う意味がないからです。困ったときはだいたい「恋愛とかまじでわかんないんだよねー」とか言って適当に流します。(これは本当に私の個人的な見解なので、人によって意見は全く異なると思います)

一概にどちらが正解、どちらが絶対に良いとは言い切れません。しかし私は、この作品で描かれるアロマンティック・アセクシュアルのキャラクター、蘇畑佳純は、あまりにも孤独すぎると感じました。

ラーメン屋と仲良くなっては恋愛感情を抱かれて縁を切られ、真帆と共に人生を歩んでいけると期待しては結婚で破談。ゲイをカミングアウトしてくれた同僚に、幼少期から恋愛がわからない話をしかけると「それくらいの頃ってそーゆーもん」と遮られ、家族からはどれだけ説明しても全く理解を得られず、騙してまでお見合いに連れていかれる。終いに妹からは「お母さんがかわいそう」と、佳純がただ自分勝手に振舞っているかのような扱いを受ける。

少しずつ相手の様子を伺いながらセーファースペースを築いて、やっと掴めた!居場所が見つかった!と思った矢先、恋愛や結婚観の押し付けによってひとつ残らず関係が潰されていく。ひとつ残らず。

そんな中で佳純が、ふと思いつきで開いた本やウェブサイトに「アロマンティック・アセクシュアル」の文字を見つけることができたら、どんなに良かっただろう。ネット上だけでも自分と似た感覚をもつ人と繋がることができたら、誰にも理解されない経験を話すことができれば、どんなに救われただろうか。

これはスクリーンを見つめる視聴者の方たちにも共通する話だと思います。私がもしアロマンティック・アセクシュアルという言葉を知らずにこの作品を観ていたなら、自分と佳純の経験に共通することを発見できたとしても、結局現実で天藤先生に出会えなければ、この先誰とも心地よい関係性を築いていけないのではないか。文字通り絶望、落胆してしまったかもしれません。

ただ佳純が「あなたはひとりじゃない」ということを、映画で描かれていた人生のどこかずっと先ででも知るきっかけがあれば良いなと、心から願うばかりです。

とは言いつつも、この映画ではアロマンティック・アセクシュアルの人々が人生で経験する出来事、途方もない孤独が、現実そのままに描かれていることは確かです(これも私の個人的な経験上であり、人によって差異はあるでしょうが)。そういった意味では綺麗事ほぼなしで事実に沿った、素晴らしい作品になっていると考えられます。片鱗に重要なメッセージがたくさん組み込まれていて、何度でも見返したくなる映画です。

最後になりますが、今回の映画鑑賞会にお集まりいただいたみなさま、本当にありがとうございました。ぜひ次回はどこか教室で、ポップコーンでもむさぼりながら開催できることを楽しみにしております🍿🥤


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