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サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んで

こんにちは。信濃さんはお元気ですか?
こちらは…元気です。ですけど、疲れてるかな。
今年一年は大変だったよ。ホント。今まで以上に働いたなぁ。個人的には賃貸のトラブルが多かった。やれやれ。

今回読んだ『ライ麦』をいきなりまとめちゃうと、この物語は基本的には明るい口調で書かれているものの、弟を失って学校を退学することになった若者が、自分を見失って街を放浪し続ける悲しい物語だ。街を放浪する姿はまるで施しを求める聖者のよう。キリストの話も出てくるけど、ホールデンとキリストを重ねさせるかのようだと思ったな。
そうかといって、正しいことを言いまくるわけでもない。ホールデンは何が好きで何が嫌いなのかを言いまくる。後光なんか指すわけもない。

サリンジャーってどういう人なんだろうって思って調べてみたよ。もう知っているだろうけど、ごめんけど付き合ってくれ。
1919生まれ、2010年死去。結構最近亡くなってる。アメリカの小説家。ユダヤ人。裕福な貿易会社の息子。
学校へは転々としていたが、最終的にはコロンビア大学の聴講生になる。その頃から小説を書いていた。第二次大戦へは志願して陸軍へ入隊。戦闘で精神衰弱。ホールデンに似てる。
戦後は執筆に専念。その中で1950年に『ライ麦畑でつかまえて』が完成。賛否両論。保守層やピューリタン主義者からの批判があったものの、若者からの人気は当時から高かったんだって。

とりとめもなく話しちゃうと、崖のライ麦畑で子どもたちが遊んでいて、崖近くで危ない子供を捕まえる役をやるっていうのは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い出しちゃったな。看病してあげたり諭したり、でかけていって良いことをするっていうか、別に無理して良いことをってわけでもないんだけど、困っていたら助けてあげる、あるいは困りそうなら諭してあげる。形が似ているんじゃないかな。
静かに笑っているところとかも似てるかな。でもこれを思い出したのは「そういったものに僕はなりたいんだよ」ってホールデンが言っている、語り口が「雨ニモマケズ」を思い出させたんだろうね。

で、誰がキャッチャーなんだって話だよね。Webで検索してみると、弟のアリーとか妹のフィービーとかだって書いているんだけど、それもそれでそうだろうけどそれだけじゃないだろうって、僕なんかは思うね。
だってホールデンはちゃんとフィービーと二人旅をすることなく家に帰れと言って止めているし、ホールデンだってキャッチャーじゃないか。この物語はどんな人でもキャッチャーになって、お互いがお互いを受け止めあうようなあり方の模索が書かれているんじゃないか。

僕にはこれぐらいしかわからなかったな。共感できるとかできないとか、みんな色々感想があるみたいだけど、僕はこんな悲劇は悲しすぎるなと思ったな。共感できるっちゃできるけど、ここまで実体験として悲しくなったことはないから、大変そうだなとは思うな。僕もまた話を他人事として聞くインチキ野郎の一人だろうか。でも僕はトイレにファッキューなんて書かないぜ?ホールデンみたいに嘘だって馬鹿だからつけないし。

この物語はキャッチャーにしか本当のことを言わないんだな。キャッチャーというのはつまり神に向かっての告白に似せているんじゃないか。ホールデンはフィービーには本当の事を言うんだ。でも街で出会う通行人や単なる友人にはそんなに本当のことは言わない。言おうとしても言えない。サリーもキャッチャーかなーって探ってたけど反発されてるところをみると間違えちまったようだね。なんでだろうな。色々ホールデン側の誤解もあるだろうし、みんなどこかで「インチキ」な部分があって、ホールデンがそれに気づいちまうというのもある。みんな神じゃないからな。人間だから。それぞれ欲望もあるし、醜いっちゃあ醜い。適当にやり過ごすこともあるしな。

アメリカ文学、俄然興味が出てきたよ。次の本はアメリカ文学の評論でもいいなぁ。

今回はこのあたりで書くのをやめとくよ。また24日に。それじゃ。

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