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マックス・ウェーバーについて

今回はウェーバーの入門書である、野口雅弘『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』を読んだ。その感想を記す。特に、読み込むのに大切なイメージをまとめたい。
(なお以下の引用はKindleより。「l.」はロケーションの略。)

ウェーバーのキャリアがどこの時点からスタートしたのかについてから考え始めたい。彼の研究の特異点は父親の死ではないか。そこから彼の思想的な軸が開花してきたのではないか。
父親の死を契機として出てきたウェーバーの病が、彼にある考えをもたらしている。それは文化的人間における死の無意味さである。なぜ文化的な人間には死が無意味か。それは人間の目の前には進歩が横たわっていて、死するべき人間は誰にもその高みにはとどまれないからである。これが彼の考えの出発点だといえよう。

一つ目のイメージ、積層・挟まれた内容物とその消滅

進歩が無意味だと喝破した病んだウェーバーは比較的細かな作業に集中し始める。歴史学派の方法論を研究する。いくつかの方法論がある中でウェーバーが注目したのは「流出論」だった。「流出論というのは、ある究極的な実体(真の実在)があり、ものごとはそうした実体から説明できる、という考え方である」(l.800)。実体とは具体的には汎神論的神やドイツの民族精神でもいい。あるいは人格もそうだという。人格という統一体は統一性として現れ、ひいては矛盾のない合理的なものとして説明されるようになる。まるですべての事物や世界がその実体によって説明することができるかのように扱われる結果、その概念に対する批判的な問い直しができなくなってしまう。
概念に対して批判的問い直しができないと、その概念がなぜつくりだされたのかがよくわからなくなってしまう。何らかの大義、Sacheにコミットすることなく、付和雷同的に振る舞うしかなくなってしまう。

元々流出論に関する議論以前からウェーバーは「理解社会学」と呼んで、行為者の主観的な意味付けに注目した議論を展開させていた。つまり、個々人は何らかの主観的な理解をよりどころにして世界を見ているのであって、究極的な実体を手にして世界を操っているわけではない。流出論の立場では一つの実体ですべての事柄を説明しようとし、すべての事柄が共通の実体を元に交わる形で思考し始める。ウェーバー的な視点では、そうしたあり方は異なる価値の無駄なアウフヘーベン、合一が起こってしまうために問題だとされる。
「客観」という言葉も理解社会学的な行為者の主観からは逃れられない。私たちはどこかで何らかの観点にもとづいて認識、行為している。観点なくして、人間として生きることはできない。ウェーバーはこの点を強調して「「観点」を自覚化すること」、「価値自由」であること、つまり「ある「観点」の選択については恣意性を排除できないが、その選択のあとの思考プロセスには価値の混入がないようにする」べきだと主張した(l.854)。

なんらかの狙いがあったとしても、その観点について自覚しないのが宗教だ、と書くと少し語弊がありそうだ。しかしとはいえ、度合いの問題であれば科学よりかは自覚のプロセスが乏しい、あるいはどうしても遅れてしまうのが宗教だろう。宗教は科学以上に現実の成果よりも心の安定を求める一般的な傾向があるといえよう。教会関係者ではない、世俗の人間であればなおさらだ。そうした心の安定を求める市井の宗教人は厳格で徹底した取り組みを行う。資本主義に基づく仕事、事業においても同様だ。徹底的にやるので結果的には成功してゆく。

さてそんな厳格さが十七世紀ほどには健在だったが、その後はどうか。ウェーバーはその信仰的要素が次第に抜け落ちてゆくことを指摘する。「宗教的な動機によって世俗の労働に勤しんでいた人たちから宗教心が抜ければ、勤勉で、合理的な営利活動と、それを善とする経済倫理が残る。」(l.1079)

こうした文化発展の最後に現れる「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と

l.1098

しかし、それが単に自惚れなら、思い込みに過ぎない。進歩に到達したと考えた瞬間に、その先の進歩が見える。そしてそんな進歩に到達してはその先の進歩がかすかに見えるを繰り返した後、やがて人間は死んでこの世から消え去る。
ウェーバーで重要なのはこのイメージだろう。つまり何か積み重なるものがあり、その重なりの間にはかつてはぎっしりと大切なものが詰まっていたのだが、やがて時が経つにつれて消えてなくなってしまう。そして結局は骨組みしか残らない。これが一つ目のイメージだ。
いや、これはもしかしたら野口が強調したことを私が受け取っているだけなのかもしれない。野口は第一次大戦を経験したウェーバー、そして同じく経験したヴァルター・ベンヤミンとともに引用しながら、戦争が人々の歴史観、より詳細には時間に対する意識をねじ曲げてしまったと解説する。ベンヤミンいわく、社会の中で安定的に、一定の規範で継承されてきた「経験」と、その規範が壊れて断片的になった「体験」を区別し、戦争帰還者は伝達可能な経験を失って体験に依存し、社会が断片化しているとする。この説明も同様だ。規範という重要な何かが失われてしまうことを指摘する。

二つ目のイメージ、政治の暴力性と機械

人々が「経験」を失って「体験」を全面化させる。その結果として起こることは何か。
様々な人が自分たちの体験を相互に押し付け合う。そのなかで一定の秩序を可能にするためには暴力が必要になる。ウェーバーは、当時としてはあまり一般的ではなかった、国家による物理的な暴力行使の独占について言及する。(l.1259)
後の時代、ロールズやアーレントによってこの暴力行使の議論は批判的な検証が加わるが、兎にも角にも、国家であれ官僚制的組織の永遠性を訴えたウェーバーは「政治における暴力の契機を強調した」(l.1311)。ここで出てくるモチーフが「戦車」だという(l.1292)。この政治の暴力性と機械が二つ目のイメージ。
後に政党政治に興味を持ったウェーバーは、政党を「集票マシーン」と表現する。政党政治以前では、一部の人間だけが選挙権を持っていて、顔見知りだけで派閥争いをすればよかった。だが次第にブルジョワ階級が台頭し、有権者の票を求めて候補者が競争するようになった。「『マシーン』は主体の意志や動機とは関係なく、所定の目的を自動的に実現していく、という含意をもつ。…(政党という)マシーンが自己保存のために勝てる候補を探し出し、売り出していく。」(l.1436、丸括弧筆者)これは政治だけの話ではない。昨今のジャニーズの性加害問題にも通じるだろう。権力者の支配的性犯罪による、売れる人間の選別。それを誰も止められないジャニーズという官僚制。

そこにあるのは有無を言わさない強制性だ。勝てる根拠があるのだから(しかしその根拠とはどういうものなのだろうか?別のあり方についての模索はされなくてもよいのだろうか?政治しかり、芸能しかり…)、とにかく売り出す。「恣意と私情を排して、粛々と業務を行」い、官僚制的な組織の側面が売り出してゆく。そこには政治的な議論がない。日本ではすでに政治が官僚制的になりすぎていて、すべてが粛々と進められるのが政治かのように受け止められがちであると思うのだが、政治とは本来であれば複数の意見を取り込むための技法だろう。言論で公衆に説明されて、政治となる。ウェーバーが抵抗したのは、こうした政治が、粛々と業務を進める官僚制に潰されることだった(l.1526)。

なぜウェーバーが理念にこだわったのか。それは事実を認識することそのものが解釈を交えてしまうことに気がついていたからだろう。つまり何事かを提出するのに理念として考えざるを得なかった。提出物すべてが結局解釈を含むのであれば、最初から内容物を捨象して理念として提出しようとした。一つ目のイメージの内容物の消滅に通じる。魔法が解けるという表現もこれだろう。そしてあらわになる骨組みは、簡素なので機動性に優れている。動きやすいから簡単には壊れない永遠に動くマシンと化す。
ごく自然にこうした取り組みが合理化によって起こるならば、ウェーバーが言葉で探究することによって、思惟でマシンを作れるのではないか。それが理念型としてあり得るのではないか。そういう検討でもってウェーバーは考案したのではないか。官僚制の対抗馬として理念型を提示していったのではないか。
そしてその理念が実現する具体的な場の一つとしては宗教が挙げられる。

ウェーバーは人を動かし、社会を変革していく力として、理念や「世界観」に注目する。世界の見方、人間の理解の仕方、生きる意味などについての思想や情報がプールされているのは、宗教的な観念世界である、と彼は考えた。

l.1775-1777

終わりに

以上の指摘で本書が書くウェーバーの基本的イメージが網羅できたのではないかと思う。

例えば宗教は歴史的に積み重なる構想物だし、政治はそうした構想物から中身を抜いたマシーンで、マシーンは軽快に動くのでそれを動かす人物を選択する方法としては直接選出の大統領制とした。マシーン内での闘争は、少なくとも学問的には出力結果に負の影響をおよぼすので非推奨。
西洋には宗教を代表とする単一支配へと通じる積層構造物があるが東洋にはない。マシーンはプロセス以上に出力結果が重視される。情報公開はプロセスなので重視されない。

ウェーバーは時代の人だ。ヒトラーやナチスへ影響を与えたと言われてしまうほどに、そのときにはそのようにしか考えられなかったのだ、としか言えないといえば言えない。
キリスト教を対象化しながらもどのようにヨーロッパという社会を俯瞰できるかに苦心した社会学者だと思った。

もし次にウェーバーの本が読めたなら、上記のイメージを参考に読み込んでいきたい。特に真理のない学問などが気になる。


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