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私にとっての宗教 5

ひとへに親鸞一人がためなりけり

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」 『歎異抄』

「受刑者の罪は私のためであった」ということに思い至った時点から、様々なことに気がつきました。
それまでの私は、自分のことばかりを考えていました。
自分が救われたい、自分が目立ちたい、人より偉く見られたい、楽をしたいし、他人を利用する等々です。
今もそれは変わっていません。変わりようがないのです。
しかし、自分ではそれを認めることができません。客観的に見ることもできません。いくら心理学をやっても仏典を読み込んでも、ただそれは自分が人より優位に立つための道具でした。
それでもうまく行かないことが苦しく、死ぬのが怖くて、だからと言って助けてもらうこともプライドが高くてできないような体たらくです。
そんな自分自身を認め、彼らと自分に何に違いがあるものかと気がついた時に初めて私は救われたのです。
そして、振り返った時、生きることの苦しみも、大石先生との出会いも、宗教的体験も、刑務所で経験した全てが私にためであった。
私のために「南無阿弥陀仏」が用意されていたのだと。

太陽の例え

太陽が、もしあなたを照らすことに条件をつけたらどうしますか。
こんな行いをしなければあなたを照らすことはできない。ダメなあなたは照らされる資格がない。と言われたらどうします。
すぐに凍えて死んでしまいます。
そして、元より私には照らしてもらうような資格などなかったのです。
本当の太陽はそのようなことは言いません。私が気が付くよりももっとずっと以前から私を照らしていてくれていたのです。
気がつかなかったのは私の方です。
太陽がなければ、生きることはできません。
水も空気も生命も何もかもが太陽を必要とします。
それに気がついて、頭が下がらない訳はありません。
ああそうであったのか。気がついていないのは私の方で、太陽は常に私のために輝いていてくれたのか。
申し訳なかった、すまなかった。ありがたかった。
そう思った瞬間に、太陽に照らされる全てのものが輝き始めます。
世界が輝き始めます。生きる意味に気が付くのです。いや、生かされていることに気がついたのです。
私はその光景をただただ心を震わせて眺めることしかできません。

「歎異抄」を味わう

それまで何度も読んでいた「歎異抄」や聖典が読めるようになりました。
同じ「読める」ですが、全く違います。
聖人のお言葉が実感として心に入ってくるようになったのです。
大石先生の著書もそうです。何が書いているか、どのようなご心境であったかがわかるようになりました。
そして、そこに書かれていることを味わうことができるようになったのです。
例えば、ハワイについてのガイドブックがあるとします。ハワイはどんなに良いところか、楽しいところかが書いてあります。
ハワイに行ったことがない時は、「ハワイとはこんなところか、行ってみたいなぁ」と思って読んでいます。
ところが、ハワイに行った後は、「そうそう、こんなところもあったよね。もうちょっと先にこんな店もあったんなら次は行ってみよう」となります。
そして、ハワイに行ったことのない人にハワイがどんなにいいところか伝えようとしますが、なかなか思うようには伝わりません。
一方、同じようにハワイに行ったことのある人とは、すんなりと話が通じるのです。
そして、もうガイドブックは必要ありません。時々は利用しますが、実際のハワイを思い浮かべ、楽しかったことの余韻を楽しむためです。
ですから、私は、持っていた大量の書籍のほとんどを手放してしまいました。もう解説書はいりません。
「南無阿弥陀仏」をいただいているのですから。

次の最終回に続きます。

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