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私にとっての宗教 6

他力という考え方

私は自分のことを「念仏者(ねんぶつしゃ)」であると言っています。

「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祗も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々」『歎異抄』

「念仏者」は無敵の人です。
死ぬも生きるも、善も悪も、良いことも悪いことも全て如来からいただいたものであるからです。
私はこんな風に考えます。
5月の節句に鯉のぼりと一緒に掲げられる吹き流しを想像してください。
風がある時はその風を受けてはためきます。方向も風次第です。
しかし、吹き流しが自分の好きな方向を向きたい。口を開けっ放しは嫌だと言い出したらどうでしょう。
吹き流しははためくことはできません。
私は、中身のない吹き流しです。
如来からの風を受けて初めて空にはためくことが出来ます。
如来からの風がなくなれば、それで終わりです。お任せているのですから、何の不満もありません。
如来の風をいただいて、空をはためきながら、この世界で生かされているよろこびを感じているのです。

平気で生きて、平気で死んで行く

このお話の最初は、「なぜ平気で生きていけるのか」という問いから始まりました。
それは、私自身が、平気できることが出来なくなったからです。
そこから始まって、私が生きる意味を見つけ、「平気で生きていける」ようになった記録です。
動物は生きる意味など考えません。
うちの猫は、日向でうたた寝をして、日が陰って寒ければ膝に乗ってきます。
でも、太陽について考えることはないのです。
それはとても幸せなことです。
私たちは「春が来た」と言いますが、「春」を見たことはありません。
雪が溶けて、草花が芽吹き、鳥がさえずり、カレンダーを見て「春が来た」と言います。
そして、去年と違って暖かいとか、花粉が多いとか、花見の時期だ酒が飲めるとか・・・
しかし、誰も「春」を見たことがありません。人間が名付けただけで、自然はそのようなことに頓着しません。
人だけが「それ」に名前を付け、あれやこれやと考えるのです。

生きる意味

仏教では、人生の苦しみを、大きく4つに分けたものを「四苦(しく)」といいます。
1.「生苦(しょうく)」
2.「老苦(ろうく)」
3.「病苦(びょうく)」
4.「死苦(しく)」の4つです。
お経には、『阿含経』に「生老病死は世の常法なり」とか、
『涅槃経』に「生老病死は常に来たりて衆生を切る」
などと説かれています。

お釈迦様は人生は「苦」であることを見出し、そこから逃れるための真理を求め、悟りを開かれました。
悟りを開いたお釈迦様はただ一人、人間界を去ることを決意しました。自らの悟りが他人に理解されるとは思わなかったからです。
しかし、梵天に勧められ、人間世界に残って悟りを広めようと決意したのです。
やがて、仏様の教えはやがてインドからシルクロードを経て中国にたどり着きます。そして海を越えて東アジアの島国へと渡ってきたのです。
なぜ、仏教の教えが人々を突き動かしたのか。
それは、生きることは「苦」であることに気がついてしまった人々が救いを求めた結果です。
仏様の旅は「苦」から出発しました。しかし、お亡くなりになられる時に『この世界は美しい、人生は甘美である』であると語られたとされています。

生かされていることに気づくこと。
いただいた命を味わい謳歌すること。
全ての命を讃えること。

これこそが生きる意味です。

終わりに

仏教、キリスト教、イスラム教といろいろな宗教があります。
宗教を持たない人もたくさんいます。
私は、人それぞれでいいのではないかと思いますし、私の宗教を誰かに認めてもらうつもりもありません。こんな経験をしたという話です。
そのおかげで、私は平気で生きていけますし、平気で死ねます。
長かったですが、そういうお話でした。

ユングの自宅の扉には文字が掘られていたそうです。
そこには、こう書かれていました。
「信じようと信じまいと、神はいます」

お付き合いいただきありがとうございました。



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