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「言葉の樹」 長田弘

今日は最近読んで印象に残った文章を。

「言葉の樹」 長田弘

心の余白に、思いだすままに、いくつかの言葉を書く。ふっとその言葉を書いてみたくなって書く言葉。「樹」という言葉は、わたしにはそんな一つの言葉だ。

ただ「樹」と書く。それだけだ。そう書いて、その言葉を見ている。すると、目のなかでゆっくり「樹」という言葉が解け、字面が溶けていく。水のように滲み、それから根づいてくる。

言葉の毛細管の非常に細かい一本一本が、しっかりと心の中に張ってくる。それはやがて、静かにもりあがってくる。葉がひろがってくる。さわさわ、と葉が互いに擦れあう音が聴こえる。沈黙のように聴こえる。目のなかに突然、いっせいに葉群らがひるがえって、光る。風を感じる。おおきな樹が生まれ、おおきな樹から、さらにおおきな影が生まれる。

「樹」という言葉は、ただの一語にすぎない。ただ一語にすぎないけれども、しかし、そのただ一語を書くだけで、明るい日差しの下の、おおきな樹の下の、おおきな影のなかに、わたしは入ることができる。たとえ、どんな深夜にも。



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