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桜① 儚い美しさ

 最近の日課というか。家に籠る以外にやることがないので犬の散歩によく行く。

 当初の約束では、両親ではなく私と弟のどちらかが率先して散歩に行く、ということであったのだが。今やそんな約束があったのかどうかすら疑わしいものである。弟に至っては散歩の時の準備すら覚えていないだろうな、と。

 言い訳をするならば何だかんだ高校の時から部活やらバイトやらで忙しかった。
 思えば高校時代は、ゆるゆるの軽音楽部だったはずなのに何故あんなに毎日6時間とかベース弾いてたんだろう。頭おかしいんじゃないのか。
 専門に入ってからは中々にバイトで社畜している。

 そんなわけでここ最近はコロナ怖いしってことでバイトも入れずにほぼほぼ家でだらだら、ゴロゴロしている。どうぶつの森やるか、やれと言われてグラブルやるか、Twitter見てるか。流石に動きたくなってきた。

 という感じで犬の散歩に行く。

 近所の川沿いに向かって行き、区切りの良いところで折り返してくる、というのが大抵のお決まりの散歩コース。その川沿いがこの時期は良い感じに桜が咲いている。

<ここまでが長い前置き>

『桜』

 昔カクヨムで皆同じタイトル、という縛りだけで書く自主企画に投稿した話のひっそりとしたテーマにも桜をモチーフにしたなぁ、と。
 私はどうにも春は創作がしたくなるらしい。冬は調子が悪い。

 春といえば、桜といえば。何を思い浮かべるだろう。
 大抵、始まりだとか、そういう前向きなものが多いような気がする。強いて言えば、別れ、とか。

 正直そういうありきたりな発想には飽きている。
(ありきたり、ということは一定数の需要に繋がるため商売向きではあるのだろうけれど)

 それはさておき、

 桜の散る様を見て、どうしても私は儚さだとか、諸行無常というか、そういう感情を抱くことが多い。
 というのも、あの薄紅の美しさは限られた僅かな時だけだからだ。陽に透けるほど薄い花弁も、少し経てば茶色くくすんでしまう。小さな袋一杯に花弁を集めても、家に帰る頃には茶色い滓と成り果てる。幼い頃の苦い思い出。

 だから、あれに期待や希望を抱くことが殆ど無い。また直ぐ散るのだろうな、という気持ちになる。

 そうだな、私は殆ど桜と蝉を同じように見ている。蝉は地上に出てからその一生を終えるまでが短いように、桜も蕾が膨らんでから花が散るまでの間が短い。

 どちらも儚いからこその美しさとでも言うんだろうか。そういう趣があるというか。

 美しいには種類があると思うが、桜は『儚い美しさ』であると私は思うのだ。

 散る姿が一番美しいとは、なんて皮肉な。

 ――と、毎年なんだか心にポッカリと穴が空いたような心地で桜を眺めるのだ。

桜②に続く

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