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「生きる理由」と「死なない言い訳」

 「生きる理由」を考えたことはあるだろうか。何のために生まれ、生きて、死ぬのか。生きることに理由なんて要らない、という人もいるだろう。何かのために生きているわけじゃない、目的なんていらない、と。そう考えて、もしくは理由なんて考えずに生きていくのも一つの方法だろう。

 だけど私には、「生きる理由」が必要だ。目的もなく歩いていくには、人生という道はあまりにも自由で、複雑で、困難だ。

 何故「生きる理由」が必要なのか。話は少し変わってしまうけれど、「死にたい」と思ったことはあるだろうか。私はある、何度も。眠るように、水に溶けるように、夕闇に沈むように、静かに火が消えるように死ぬ方法が目の前にあったのなら、私はとっくにこの世界からいなくなっている。

 その度死なずに命を繋いで生き延びたのは、紛れもなく「生きる理由」があったからだ。

 もし「死にたい」と思った時、「生きる理由」が一つも、ほんの少しでもなかったのなら、人間は簡単に死んでしまうだろう。人間は強く、脆い生き物だ。「生きること」と「死ぬこと」を天秤にかけた時、「生きること」より「死ぬこと」の方が有利になっても天秤のお皿の上に載っているものを見れば、どちらを選ぶべきか分かるだろう。けれど「生きること」のお皿に何もなかったとしたら、「生きること」の価値はなくなり「死ぬこと」が意義を持ってしまう。

 私の天秤は何度も「死ぬこと」の方へと傾いた。その度「死」を選ぼうとした。でも出来なかった。どんなに「生きること」の意味がなくなっていっても、ただ一つ消えないものがあったから。

 多くの人はそれを「夢」と呼ぶだろう、もしくは「希望」と。私はそれを、「生きる理由」と呼んでいる。ただ一つ消えない光があるから、私は生きている。

 「生きる理由」は言い換えれば「死なない言い訳」だ。どんなにこの世を嫌いになっても、社会を恨んでも、「死ぬ」方がマシだと思っても、「死なない言い訳」を持っていれば生きていることが肯定される。しょうがないから生きてみよう、と思える。前向きに生きられなくたっていい。なんとなく生きることを選んだっていいのだ。

 もし「生きる理由」がなくなったら、生きるための強固な支柱がなくなったとしたら。理由なんてものに縛られて生きるなんて馬鹿馬鹿しい、と思う人もいるだろう。そんな確証のないものに縋って生きるくらいなら理由なんて持たず、なんとなく生きればいい、と思うかもしれない。

 でも生きていれば、どうしようもない絶望の中に放り出されることだってある。そんな時、一筋でも光があれば救われるかもしれない。それが「理由」でも「言い訳」でも何でも、掴めるのであれば、縋れるのであれば、いいのではないか。自分の側に常にいて、人生をずっと共に歩んでくれるのは自分しかいないから。その自分が信じられる「理由」があれば、心の中に揺らぐことのない軸を持っていれば、迷っても進んでいけるから。

 それに「生きる理由」がなくなったとしても、道標があれば歩いて行ける。そこまで辿り着いたなら新しい目的地を探せばいい。見失ったのなら別のものを探せばいい。変わりはなくとも代替品は山ほどある。「生きる理由」がなくなっても、かつてあったことを覚えていれば、思い出を抱いて生きていけることだってある。なくなってもそこから新しい理由を見つけることだってできる。この世はただ生きるには難しいが、すべてを見て回るには時間がいくらあっても足りないほど、未知で溢れている。
 
 そして「生きる理由」は些細であればあるほど良い。たくさんあればあるほどさらに良い。どんなものでも天秤に載りきらないほど理由を集めれば、何かが欠けたって揺らぐことはない。小さな喜びで幸せを感じられることほど幸福なことはないのだから。
  


 ずっと「生きる」ことが辛かった。「生きる」こととは何なのか分からなかった。「きっと私は大人になれない」と思っていたのに、気づいたら大人になっていた。いつの間にか二十歳を過ぎて、子供の頃より視野が広がって、生きることが少しは楽になって、それでもこの世界を好きになるのは難しいけれど。でも私には「生きる理由」があるから。終わりにしようと思っても「言い訳」しながら生きていく。



 もしかしたら「生」を肯定し続けることが、生きることなのかもしれない。 「生きている理由」とは「死なないための言い訳」だから。


 生きる過程は永い永い、死までの道のり、長い言い訳。

 今日もまた、生きる理由を探している。


私の生きる理由とそのための費用に使わせていただきます。