17℃ー誰の、誰による、誰のための、しあわせ?

私の、人生の目標ってなんだろうか。
そう考えた時、必ず一度は頭を掠めるのが「生きている時間を可能な限り無駄にせず、有意義に使い尽くす」という大きなテーマである。かつて、私は「時間」のことを「人生の単位あたりの充実度を図るための指標」であると書いたが、もしその仮定が正しいとすると、この目標を達するということは、すなわち人生の充実度を上げる行動を取り続けようとすることに他ならない。そしてそれは、自分自身が「しあわせ」と感じる瞬間を、一つ一つ丁寧に拾い集めていくことにつながるのではないだろうか。

じゃあ、しあわせって、なんだ。
実は、しあわせには2つの種類があると思っている。今日はその話をしたい。

①他者の、他者による、自分のための、しあわせ


まず、この話をする上での前提がある。私は自分の「しあわせ」や、自分による「しあわせ」について、あまり興味がない。興味がないというより、それらは私の人生の、特に充実度を測る部分では関与をしてこないと言うのが正確だろうか。ともかく、今回はその点について深くは触れないのであしからず。

さて、①のしあわせとは一体どういうものだろうか。端的なまとめとしては、「自分がきっかけで周りの人が楽しそうにしてたら、私も嬉しい」ということである。つまり、私が他者のしあわせを引き出すことが、私の人生において何よりも充実した行為なのである。人のしあわせが染み出し、結集し、表出するのを見守っていたいし、特に、その過程でしあわせのベクトルが少しでも自分の方に向いていたならば、これほど嬉しくてしあわせなことはない。人のしあわせに関与できたということが、私にとって何よりの「しあわせ」なのである。だから、人が笑顔になっているのを見ると、私も笑顔になるし、人が笑顔になっているのを見たいから、私は人を笑わせたいと思う。
逆に、最初から自分が笑うために何か行動を起こすことはほとんどない。その点で、この性格は極めて不自由だ。自分自身だけで、しあわせを手に入れることはできないからだ。よって自分がしあわせになるには、間接的に他者の存在が不可欠である。

②他者の、他者による、他者のための、しあわせ

一方、①と対抗する概念として、②がある。
これは、「周りの人が私の知らないところでしあわせそうにしているのは、正直なところ受け入れ難い (感情的に言うなら、かなしい) 」ということである。極めて自分本位な「他者本位」であり、本質的に矛盾している考え方であるが、そう思うことをやめられない。そして結局のところ、「私抜きでしあわせになるなんて、置いて行かれている気がしてならない!」という、ただの嫉妬にその感情が収斂し、私の心はどんどんと苦しくなる。
私は、誰かにとって大切な「私」でいたいし、その私が (微力でも) 貢献することで、誰かがしあわせになるかもしれない、と思っていたい。でも、これはかなりの部分で幻想であり、希望的観測であるだろう。なぜなら、私が関与しないところでだって地球は回っているし時間は巡っているから。そして、そのプロセスの中でしあわせは生まれていく。他者による、他者のためのしあわせが私に届いた時、恥ずかしながら私は、表面上はニコニコしながらも心ではそれを拒絶してしまうだろう。実際、私なんていなくても彼らはしあわせなんだ、という事実を受け入れられないことがある。これが、SNS等でのいわゆる「しあわせアピール」を私が受け止めきれない大きな理由だ。そのしあわせベクトルは決して私を向いていない、私は相手に特段価値を提供できていないと感じてしまうと、私はかなしくて自己嫌悪に陥ってしまうのだ。あーメンドウクサイ。

最後に、両者についてここまでの議論をまとめ、その上で自らに対し今後への提言をしておく。
他者のしあわせに関わることが自分がしあわせになる最大の秘訣である一方で、他者のしあわせに自分を投影できないときは自分がしあわせから一層遠ざかっていくことになる、という私の価値観は、いつも他者からの反応に振り回されることになる、正直不安定である。本当は、③自分の、自分による、自分のためのしあわせ を早く見つけたい。もし、③が確立できたなら、ある一定のしあわせは自分の手の届く範囲でコントロールが効く。その分だけ、人生の充実度も安定して高まっていくのではないだろうか。

自分のしあわせを、自分の中に見つけること。今最も求められている自己研鑽はきっとここにある。


※本文中の表現について
意味合いとしては、まさにしあわせ=幸せであるが、漢字で綴った「幸せ」ということばを連呼すると無性に重い文章が完成してしまうため、解釈を和らげるためにもひらがな表記を用いていることをご理解ください。


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