見出し画像

要不要、で人間を語ることほどむなしいことはない

郁です。
今日は父の誕生日です。
久々に家族で食事に行ってきましたよ。
最近、父がメタボ気味になってきたので、「運動を!するよ!」と叩き起こしています。
足腰を鍛えていれば、たぶん健康でいられると信じている。

書くか、書くまいか、先週からゴロゴロ考えて眠れなかったりしていたのだけど、やはり吐き出すことにしたので書いてみる。

「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる」。

とある事件の犯人が放った言葉です。

この事件が起きる前年に、私の母方の祖父は脳腫瘍で倒れました。
意識が戻ったあとは、「家に帰る」の一点張りで、母と私と、単身赴任先から一時的に帰ってきた父と3人で力づくでそれを抑える日々。

そうするうちに、心労で今度は母が倒れて入院し、父は赴任先に戻らざるをえず、めちゃくちゃ大変だった記憶があります。
たった半年くらいだったけど、仕事もしていたのでなかなかハードでしたね。
介護を長くされている方は本当にすごいなあと実感した出来事でもありました。

祖父は右半身に麻痺が残り、一時期は「寝たきりになる可能性が高い、余命は半年、もって1年」と言われました。

「寝たきりになるのだけはまずい」と思った記憶があります。
小学生の時に亡くなった祖母が、糖尿病から体を悪くして寝たきりになって、それから弱っていくのが早かったからです。

「リハビリを頑張ろう」と祖父に言ったら、嫌がるかなあと思ったら反対にものすごく頑張ってくれて、一時期は歩けるようにもなりました。
(今はちょっと筋力が衰えたので車椅子ですが、広い施設内を車椅子でお散歩するのが趣味らしい)

何より余命半年から1年と言われた人が今年で8回目のお正月を迎えたので、人間の生命力って凄いんだなあと学んだ出来事でもありました。

祖父はいわゆる身体障害者になり、言語機能も麻痺してしまったので意思疎通は難しくなったわけですが、不要かと言われると、それにはNOと答えますね。

なかなかコロナもあって、会いづらくはなりましたけど、今日も祖父が施設を車椅子でちょこまかとお散歩してんのかなあと思うと、仕事でちょっとしんどいことがあっても、「何くそ」と思えるんですよね。
そして祖父が元気で過ごせているのは、施設の方がこんなに大変な中でもお世話をしてくださっているから。

この事件は、支援や介護、介助といった『ケア』の問題も浮き彫りになった事件だと思いました。
犯人の意見に賛同する声も少なくなかったこともショックでした。

福祉の現場はとても過酷だと思います。
私の友人も福祉の仕事をしているし、祖父がお世話になっている施設でも、なかなか面会に来ない利用者家族ほど小さなことに文句をつけたりするなぁ…と思います。
(施設に対するアンケート結果が年に1回発表されるのですが、タンスの上に埃が溜まってたとか、「そんなんあんたが拭けばいいやん」レベルの文句が多い)

お世話になる側の態度も考えなければならない、というのを感じます。
人間だから、やっぱり、イラッとする時はあると思うんです。仕事とはいえ、やっぱりさ。
だから、せめてというか、基本的なこととして、感謝の気持ちを忘れないって大事なことだと思うの。

書いていて、最初に書こうと思ったことからなんだかズレてきましたね。
まとまらないんだな。
やっぱりうまくまとまらない。

私自身も障害があって、やっぱりいわゆる健常者の方と比べるとできないことは多いんですよね。
でも、うーん…

役に立つか立たないか、で人間を語ってしまうようになると、なんだかすごく冷たい世の中になるような気はする。
だってこの論理が罷り通るようになれば、私たちみんなすべからく、いつかは不要物になるわけですよ。
歳を取れば、否応なく身体は動かなくなってくるし理解力も劣るようになる。
じゃあそのとき、大人しく死ねと言われて、死ねますかって思うんだよな。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?