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価値のない人間


私は価値のない人間だと思う。

こう綴るとアグレッシブな言い方だと、驚く人もいるだろうが、今の私にとっては少し心地良い。

少し前にTwitterを削除した。

違うとは分かっていても、可視化できるフォロワー数に、認知度、人気。
根も歯もないニュースに、デマ。
誰かのため息、惚気話し。情報過多。

こんな時間に生産性のない話を綴る自分。

ああ、価値がない。


うだつのがあらない空気を纏って生活をしていた自分にとって、情報の遮断は有効だった。

体調も良くなり、iPhoneを持つ時間が格段に減り、1人の時間を過ごすことが増えた。


SNSでしか繋がっていない友人と呼べるのか分からない人の事を今も少し想う。

しかしそれも1人の時間として、有意義な時間。
またどこかで会えたらいいと江戸の想い人のようにひっそり秘める。

でもたまに、蚊帳の外の様な疎外感を感じる自分。


なにに苦を感じているのか、楽を感じているのか分からず、闇雲に過ごしていた。

ああ、私一人の苦楽は、社会的に何の価値もない。


そんな事を思って日々を過ごしていると、最近諦めがついた。
この言葉は正しくないような気がするが、一言で言うと"諦め"なんだと思う。

誰かの何者にもなれない、
そう勝手に思い込んでいる自分。

誰にも攻撃されず、誰の事も攻撃せず、
佇んでいる自分。

空気のような価値のない自分。


中学の頃の先生が卒業文集に綴っていた漢詩がある。

勧酒
勧君金屈巵  
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

井伏鱒二訳


中学の頃は、サヨナラだけが人生なんて。
そんな事ない。悲しいこと言うな、と思っていた。

10年近くたった今、サヨナラは人だけの話ではないことに気付く。

思い返せば、沢山の物事とサヨナラをしていた。

断捨離をしたり、SNSをやめたり、仕事を辞めたり、考えるのを辞めたり。

早かれ遅かれ、例外なく全ての物事に訪れるサヨナラ。

何百年前から先人が言葉を残してくれている。

自分の中で勝手に作り出した苦は、自分の中で作り出した無価値という楽に救われている気がした。

空気のように漂ったり、たまに風になったり、そう在るだけで、価値がない自分。

サヨナラだけが人生だ。
これからも誰にとっても無価値で有り続けたい。

そう思うだけで、心なしか息が出来る様になった気がするのです。

お手紙の代わりに、

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