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「ぎこちなさ」を解放する

「社会」は「ぎこちなさ」を許してくれない。最近ふとそう思った。「ちゃんとしなくてはいけない」とか「変な人と思われないようにしなくてはいけない」とか、学校で学んだ「集団生活を正しく送る方法」のチェックリストをきちんとこなさないと、兎角面倒な評価をされてしまう。

私は、長年そのリストをきちんとクリアすることに一生懸命取り組んできた。当時は、その行為が自分が持つ「ぎこちなさ」と、「集団生活を正しく送る方法」との間を埋めるパターン学習になっているとは思ってもみなかった。真面目で何事にも全力で向き合う性格だから、社会はこういうものだと無意識に学習を繰り返していたようである。そのおかげもあって、今では最大限「ぎこちなくない」人間として振る舞う方法を心得ている。

年末に自分の人生の計画や在り方について熟考しながら、今年の目標を"Be animal."に決めた。そこには、自分の正直な欲望に向き合い心の底から楽しめることだけに取り組むことで、自分の能力や幸福度を最大限高めようとする狙いが込められている。そのような行動指針で生活しはじめると、面白いことに「ぎこちなさ」が復活してきた。初対面や久しぶりに会った人と同会話していいかわからなくなったり、みんなが当たり前にわかることがすぐには理解できなかったりする。他人の私に対する評価はどこか自分の想定とずれている。おそらく昔からこのような感覚はあったのだと思うが、今メタ的に「ぎこちなさ」を捉えられるようになったおかげで頻繁に「ぎこちなさ」に遭遇するようになった。それと同時にある種の納得感と開放感に包まれた自分を発見した。

私はどうやら根っからの「ぎこちない」人間のようだ。そして、自分の人生を好転させていくには、自分がその「ぎこちなさ」を許容すること、「ぎこちなさ」を貫き通せる環境に身を置くことがどうやら重要なようである。「ぎこちなさ」を許容することは「集団生活を正しく送る方法」のパターン学習を放棄することから始まる。このパターン学習を放棄するには、それに適した環境に身を置くことが重要である。私は社会人になって自由度の高い生活環境を自ら整えることができるようになって、少しばかりかこの「ぎこちなさ」を解放させることに成功したのかもしれない。自分の心に嘘をついたり、強引にストーリーを作り上げて自分の真の欲望を捻じ曲げてしまうのは、様々な弊害を生む。人生のあるときに、自分はどうしてこんな人生を送ってしまったのだろうかと絶望の淵に立たされるかもしれない。自分の満たされない欲望を他人の成功を憎むことでしか解消できなくなってしまうかもしれない。誰もそんな人間にはなりたくないであろう。少なくとも私はそんな人間になりたくない。だから、「ぎこちなさ」を解放して最高に「ぎこちない」人生を送り続けていこうと思う。

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