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時間切れ!倫理 150 文学 夏目漱石

 夏目漱石は、帝国大学(東大)で英文学を学び、大学教員になりイギリスに留学します。そのイギリスでノイローゼになる。下宿を出て街を歩くと、ロンドンの人々が自分のことを見て笑っているような気がする。大学に行かず、自分の部屋にこもります。引きこもりです。国費留学生で偉い人ですから、留学生仲間の間で噂になる。夏目おかしくなってるぞ、と。色々な人が心配して、様子を見に来てくれるのですが、なかなか状態は良くならなかった。
 このロンドンでおかしくなっている時に、正岡子規と手紙を交わしています。正岡子規は、夏目漱石と帝国大学の同級生で大親友です。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の人です。江戸時代までの古臭い短歌や俳句を、近代的な発想、写生的な表現で革新した人です。現在の短歌や俳句の、主流となった考え方を作った人で、文学史的に重要な役割を果たすことになります。
 しかし、このころは結核にかかり、肺だけではなく体中に結核菌が広がって、体のあちこちに穴が開いて膿が出てくるような状態で、寝たきりでした。寝たきりなのですが、陸羯南(くがかつなん)の『日本』という新聞で、自分の文学理論を展開したり、俳句や短歌の投稿欄の選者をしたりして、大きな影響力を持っていました。
 その正岡子規に、夏目漱石はロンドンから手紙を出す。夏目漱石は文章が非常に上手なのです。正岡子規は、「お前の文章は面白いからもっと手紙を送ってくれ」と書き送る。寝たきりの正岡子規は、友達の手紙に飢えているわけです。こんな風にして何回か夏目漱石は手紙を送った。
 やがて、留学を終えて夏目漱石は日本に帰ってきます。夏目漱石の不安定な精神的な症状は、この後も続くようですが、帰ってきた夏目漱石に、正岡子規は、自分の雑誌に何か文章を書いてくれと頼みます。それに応えて、夏目漱石が書いたのが有名な『吾輩は猫である』です。
 これが大評判を呼ぶ。こんな風にして、頼まれるままに小説を書いているうちに、朝日新聞から、専属小説家にならないか、という誘いがあった。漱石はこれに応えて、東大教授の地位を投げ捨てて、職業小説家になりました。これ自体が、ものすごいスキャンダルでした。当時の小説家の地位と、東大教授の地位というのは、比べ物にならないぐらい格差がある。普通、東大の先生をやめて、専業小説家にはなりませんね。
 倫理的には、何が焦点なのかというと、イギリスでノイローゼになった夏目は、日本人と欧米人の精神の違いを大いに自覚します。日本人の自己確立は不十分だという認識から、「自己本位」「個人主義」ということを主張します。
 これは、小説からはなかなか読み取れませんが、講演などでこういう主張をしています。晩年は揮毫(何か書いてくれ)を頼まれると、「則天去私」と書きました。天に従って私心を去る。禅的な境地ですね。漱石がこういう境地に至ったわけではなく、こういう境地に至りたい、と思っていたのだと思います。
 彼の小説でも、物語の終盤に、主人公が悩みを抱えて禅寺にこもって座禅を組むような話が複数あります。小説の主人公たちは、座禅を組んでも悟りを開けるわけではないのですが、これは夏目漱石の自己投影だと思います。


「『漱石神話』の形成」大山秀樹(筒井 清忠編『大正史講義 文化篇』所収、ちくま新書、2021)によれば、「則天去私」は漱石の作中には登場せず、公的な場でも発言した記録はないという。弟子たちが集まった木曜会で披露した思想ということである。「それを聞いた弟子たちは宗教的な教義のように受け取り、まるで秘事口伝のように人々に伝えた。この教義が付加されることで漱石の神秘性は一層高まり、一種の「聖人」として漱石は祭り上げられていく。」p105。
現代の研究ではこの発想は、「小説の方法論を述べたものと見なす方が適当だと考えられている。」p106。




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