見出し画像

時間切れ!倫理 46『論語』

 孔子が死んだ後、弟子、孫弟子たちが孔子の語録をまとめものが『論語』。名前ぐらいは聞いたことあるでしょう。文庫本で普通の大きさの本ですね。これが二千年以上にわたってアジア圏では読まれ続けてきて、今でも読まれている。
 中身としてはあまり難しい話が載っているわけではない。ほとんどが、孔子と弟子たちの会話です。また、このなかで徳知主義とか、家族道徳だとか、そういう話が整理されて書かれているわけではありません。

 『論語』の冒頭、最初の部分を見てみましょう。
 「子(し)曰(いわ)く、『学びて時に之を習ふ。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。人知らずして温(うら)みず、亦君子ならずや』と」。
 ここから「学習」という言葉が生まれました。何気なく使ってるけれど、元は『論語』のこの部分、という言葉は結構ある。この冒頭部分、なにげない話でしょ。だけれど、解釈は意外と難しい。「学んで時々習う。」この「習う」の意味が分からないんだ。僕らは復習じゃないか、と簡単に思うけれど、復習とは書いていない。ただ「習う」です。
 「またよろこばしからずや。」ああ嬉しいな、といっている。友達がいます。遠いところから友達がやってきました。ああ楽しいな。普通に読めばこういう意味になるけれど、あまりにも普通です。だいたい『論語』はこんな感じの部分が多い。
 「人知らずしてうらみず。」人が何を「知らないか」を書いてない。だからいろいろな学者が様々に解釈している。一般的な解釈は、人が私の学問について理解できなくても、人が私の学問を評価しなくても恨みません、というものです。
 「また君子ならずや。」ああ、私は君子だな。全体を通してみると、なにもすごくなさそうです。
 なぜこの文章がすごいのか。、僕らが普通に読み取る意味以外の、さまざまな意味が隠されている。それが古代の漢文です。漢字一文字一文字が飛び石のように並んでいる。漢文というのは暗号のようなもので、漢字と漢字の間に書かれるべき言葉がカットされている。後世の人はカットされた部分を、自分で補足しながら読まなければならない。だからたったこれだけの文章でも2500年間いろいろな解釈があった。

 一般的な解釈は、単純な解釈です。「学んで時々それをおさらいする、ああ楽しいな。」しかし、そんな単純な意味ではないはずだということで、深読み解釈がたくさん出されている。
 「習う」とは何かという話なのです。儒家の人たちは儀式典礼を重んじました。様々な儀式に精通してる。外交の場だとか、国家の様々な儀式で、間違いのないように儀式を執り行うことが大事でした。現在の日本でも、上は天皇の即位式から庶民の葬式や結婚式まで、儀式はそれなりにきっちりしなければいけない。
 儒家は儀式の専門家です。儀式では音楽も演奏しました。大小の銅鐸を鳴らしたり、笙を吹く。各国に仕官していく孔子の弟子たちは、そういう知識技能を期待されていた。孔子とその弟子たちは、古い時代の儀式典礼を研究し、時にそれをみんなで実演してみる。つまり発表会です。研究・研鑽を積んで、時々みんなで発表会をやる。あそこはうまくいったね、あそこはうまくいかなかった、もっと工夫しなくては、とかいろいろ気付きがあって、「ああ楽しいな」。この解釈で、ちょっと深みが出てきましたね。(宮崎一定説)
 全く別の説でこんな解釈もある。「学」というのは知識を頭に入れること。頭の中入ってても、すとんと腑に落ちて、「わかった!」というふうにはなかなかならない。勉強していて時々「そうだったのか!」とわかる時がある。その時はめっちや嬉しい。「説(よろこぶ)」に言偏(ごんべん)がついてるのは、わかった時に声をあげてしまうほどの喜びだということ。これが学ぶ喜びだという説がある。(安冨歩説)
 安冨氏は、友達が遠くからやって来て楽しい、というのも、勉強していて「わかった!」と実感した時のうれしさは、遠くの友達がいきなり訪ねてきたときの楽しさに似ている、ということだといっている。(論語チャンネル安冨歩)

 2500年間様々な人がいろんな解釈をして、いまだに新たな解釈が生み出されつづけてい る。何気ないこんな漢字の並び方に、どんな意味がかくされいるのか。自分なりに考えると面白いです。

【参考図書】
宮崎市定 『論語の新しい読み方 (岩波現代文庫)』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?