{ 31: 黒い塔 }

{ 第1話 , 前回: 第30話 }

料理をつくる音と匂においがした。目を開けると、眼前に台所があった。

台所といっても、牢獄ろうごくのように狭せまい部屋のすみっこに、ガスコンロの台を置いただけのこじんまりとした設備だった。水道すらなく、足元に水の入ったバケツが置いてある。大きな音を立ててまわる換気扇かんきせんが頭上にあり、鍋なべで熱せられた油と煙けむりがそこにドシドシと吸すい込こまれていた。

部屋が恐おそろしく狭せまいせいか、スパイスと油の匂においでむせ返りそうだった。いや……狭せまいなんてものじゃないぞ？　信じられないことに、春樹の目覚めた場所は、寝室しんしつ兼けん台所兼けんトイレといった具合だった。ベッドとコンロと便器とが、ひとつの部屋に並んでいるのだ。

ほんとうにここは牢獄ろうごくではあるまいか？　そんなふうに思いはしたものの、牢獄ろうごくならばコックよろしく鍋なべをかき回して腕うでをふるう者の背中など見えるわけない。

「だれ……？」

春樹は体を起こした（自分の体があまりに軽くなっていて、おどろいてしまった）。二段ベッドの下側で寝ねていたようで、頭のすぐ上にベッド上段の底板が迫せまっていた。

少しでも煙けむりを逃のがしたいという思いから窓を探したけど、壁かべ床ゆか天井てんじょうのどこを見渡みわたしても、そんな上等なモノ見当たらず、サイコロの中にでも閉じこめられた気分だった。そのくせ、ずいぶんモノであふれかえった部屋だなと春樹は思った。我が家のキッチンやバスルームにある生活用品すべてをこのサイコロ部屋に集めたかのようだった。フライパン・まな板などの調理器具、コップ・皿などの食器、料理油の入ったペットボトル、醤油しょうゆ・黒酢すの瓶びん、トイレのちり紙などが、棚たなにギュウギュウ詰づめにされていた。目につく家具はその粗末そまつな棚たなだけで、収まりきらなかった鍋なべやら洗剤せんざい、野菜が床ゆかに置いてあった。鍋なべの中には、何やら肉を煮込にこんだ料理が見えた。あとは、脱ぬぎっぱなしのシャツや靴下くつしたが、春樹の寝ねているベッドの上も含ふくめ、あたりに散乱しているくらいだ。

散らかっていることこの上なく、あまりにも狭苦せまくるしい。それでも、ここは人間が人間として生活している場所で、泣きたくなるほど懐なつかしい思いが春樹を襲おそった。でも、春樹が感傷に浸ひたりきれない理由があるとすれば、この部屋に済む者が「人間じゃないかもしれない」という恐怖きょうふだった。まもなくして、部屋の住人にちがいない少年が、コンロの火を消してこちらを向いた。

「よお、気がついたか？」

少年は言った。

「どうした……どこか痛いのか？」

毛布にしがみついて体を震ふるわす春樹の顔を少年は心配そうにのぞき込こんだ。その赤い目で……

「あ……ぁっち……」

あっちに行けと言いたかったけど、春樹は声を出すこともままならなかった。

「ノドが乾かわいているのか？　よしきた、まかせろ」

少年は、棚たなからガラスのコップをつかみ取ると、床ゆかに置いてあったバケツの水をすくった。

「安心しろ。ちゃんとした業者から買った水だ。腹を壊こわすなんてことないよ」

少年は、春樹の目の前にコップを差し出して言った。春樹は、叫さけびを上げて少年の手をふり払はらった。ガシャンと音がして、ガラスのコップが床ゆかに砕くだけ散った。

「どうした？」
　少年は、驚おどろいて声をあげた。

「どうした、だと？」
　春樹は声にならない声で言った。
「おまえは、いま僕ぼくの首をしめようとしたじゃないか！」

あの時の光景が、春樹の脳裏に押おし寄よせてきた。犬仮面の大男が……赤い目をしたあのバケモノが、僕ぼくの首根っこをつかんでへし折ろうとしたあの光景が。苦しかった。ノドがしまり、体は人形のように宙に浮ういていた。必死に足をばたつかせ、犬仮面の男を何度もけとばしたのに、相手は石柱のごとくビクともしない。いや、掴つかまれているのは、ほんとうに僕ぼくだろうか？　ちがうぞ……首を掴つかまれているのは、僕ぼくの弟だ。秋人だ。

「うあぁぁぁ！」

春樹は叫さけび声ごえをあげて、突進とっしんした。秋人を守らなくちゃ。あいつの首が折れる音なんて、もう聞きたくない。だから殺される前に、今度こそやってのけるんだ。

春樹は、少年の体を床ゆかに押おし倒たおした。部屋がせまいものだから、二人とも壁かべに頭から激突げきとつしそうになった。

大丈夫だいじょうぶだ……相手がテロリストの仲間でも、僕ぼくくらい小さな子どもなら倒たおせるはずだ。いや、倒たおすだけじゃ済まさないぞ。僕ぼくには、こいつらを殺す力があるのだから。カンパニータワーの病室で誓ちかっただろう？　ユウナ博士の前で、僕ぼくはこう言ったはずだ。

「ぜったいに許すものか！　皆殺みなごろしにしてやる」

「や、やめろ！」
　少年は、声を上げた。

やめろ？　そんなふうに僕ぼくがお願いしても、誰だれもやめてくれなかったじゃないか。僕ぼくの弟の首をおり、僕ぼくの体を切り刻んだじゃないか。あまつさえ焼き殺す気なんだ。僕ぼくを、家族ごと！　

「おまえもそうなんだろう！」

春樹は、少年の首をしめた。秋人と自分の命を守るために。

春樹の丸まった指が、その白くて細いノドにめり込こんだ。確かにめり込こんだ。でもそれだけだった。

少年は、組くみ伏ふせられた状態のまま、とくに苦しそうな顔をも見せず、むしろキョトンとしていた。

力がまったく入らなかった。殺意だけが体の中を空回りし、握力あくりょくの「あ」の字すら湧わいてくる気配がない。

「ちがう……」

春樹は体をふるわせながら言った。その声は小さく、すぐ目の前にいる少年にすら聞き取れないほどだった。

「秋人はもう死んだんだ……こいつは、僕ぼくを……僕ぼくを助けて……」

「もういいだろう？」

少年は起き上がり、春樹の体をあっさりと床ゆかに転がした。とくに力をこめた様子もなく、それだけ春樹が弱っていたのだ。

「さっきまで餓死がししそうだったのに元気だな、おい。闇やみ医者から買った栄養剤えいようざいがよっぽど効いたんだな？」

少年は立ち上がると、棚たなの上に置いてあった茶色の小瓶こびんと使用済みの注射針に目を向けた。

「本当に栄養剤えいようざいか？　何が入ってるのか、ちょっと気になってきたぜ」

それから春樹に背を向けて、ふたたびガスコンロの前に立った。

「上の階でよっぽどひどい目にあったんだな？　安心しろ、俺おれは何もしやしないよ。おっと、まずいぞ。ほったらかしにしてたから、鍋なべが焦こげちまった！」

グルグルグル……

そのとき、春樹の胃袋いぶくろから動物のうめき声のような音がもれ、文字通り死ぬほど空腹だったことを思い出した。

「よしきた、メシの時間だな！」

少年は、コンロ横の鍋なべから炊たいたばかりの米を茶碗ちゃわんによそった。それから、炒いためた卵と青菜をその上に乗せた。もうひとつ別のお椀わんには、床ゆかに置いた鍋なべから肉の煮込にこみをよそい、縦半分に切ったゆで卵もそれに添そえた。

少年は、両手に持ったふたつの椀わんを、春樹の目の前の地べたに置いた。ごはんだった。お椀わんから湯気が立っている。こんなごちそう、もう何ヶ月もお目にかかっていなかった。テロに遭遇そうぐうしたあの夏の日、鈴子すずこさんが作ってくれた焼鮭やきざけの朝食以来の本物の食事だった。春樹はお椀わんを手にとると、そのままボロボロと泣なき崩くずれた。

「俺おれはロウだ。よろしくな」

少年は、春樹の震ふるえる肩かたにやさしく手を置いて言った。