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{ 30: 路地(2) }

{ 第1話 , 前回: 第29話 }

気絶した回数などもう数えたくない。そう思って自分をふるいたたせたものの、果たして気力はあとどれくらい保つだろうか……

信じられない……通りは、赤であふれている。赤、赤、赤……無数の赤い目が、道を歩いていたのだ。おちつけ、目が歩くものか。赤い目をした人間のような何かが……目が赤いことを除けば、人間とまったく同じように見える何かが、街を行き交っているのだ。

赤い目の女が、急ぎ足で道を横切っていた。それとすれちがった赤い目の男が、食堂の前で立ち止まり、そこで朝餉あさげを済ませるべきかなやみ始めた。その食堂には、赤い目の女店主が卵を山積みにした厨房ちゅうぼうにいて、赤い目の客と大声でおしゃべりしていた。食堂の軒先のきさきでは、赤い目の老人が椅子いすに座って通りをながめていた。そのとなりで赤い目の中年男が屋台を引き、まんじゅうを蒸して大量の湯気を上げていた。赤い目をした若い二人組が、通りの段差に腰掛こしかけて、そのまんじゅうを食べていた。赤い目をした無数の人が、ゴミ箱にゴミを捨て、ゴミ箱はゴミであふれかえって路上にこぼれ落ちていた。

人間の街とまったく同じ営みが、このうす暗い通りでひろげられていた。みんなそれぞれ目的があり、それぞれ向かうべき場所に向かって歩いている……そんな営みだ。赤い目であること、辺りがやけに暗いことを除けば、なにもかもが春樹の知っている世界だった。

春樹は、めまいをおぼえた。よっぽどだれかに助けを求めたかったけど、めまいの元凶げんきょうが行き交う雑踏ざっとうなのだからどうしようもなかった。それにどういうわけか、みんな春樹をけて歩いているような気がした。

だれもぼくを見ようとしない。ふいに春樹をを見る者も中にはいたけれど、すぐに目をそらすか、せるかのどちらかだった。そして、足早にその場を去っていく。

ぼく小汚こぎたない格好をしているせいか? それとも、ぼくの黒い目こそ、かれらにとって異常なものに見えるのか? 春樹は、フードをさらに目深にかぶった。

きそうだ。すものなんてもうないというのに。

春樹は、フラフラする足取りで、先ほど目覚めたゴミだらけの裏通りにもどった。それから、身をかくすようにゴミ箱のかげに入り、ひざかかえながらうずくまった。こんなところ二度ともどってくるものか……そう思っていたはずなのに、ここ以外に所を知らないのだ。

それから丸一日経った。どうしても通りに出られず、春樹はずっとゴミの中で横たわっていた。家に帰りたいなら、ここからすべきだとわかっていたのに、できなかった。

自分でもバカだとは思うけど、こわくてしかたないのだ。赤い目を見ると思い出す。ほのおのような赤かみの大男が、秋人の首を折るあの光景を。その仮面のおくには、血のような真っ赤なひとみをたたえていた。それは、夢の中で惨殺ざんさつされた家族の顔に残っていたひとみとまったく同じ色だった。

おそろしいと同時ににくかった。秋人のことを思えば、赤い目の連中をみな血祭りにあげたところで、気は済まない。通りを歩いている連中は、きっと動物面の仲間にちがいないからだ。しかしどんなににくんだところで、春樹に立ち向かう勇気はなかった。やつらの赤い目も血も、なにもかもがこわくてしかたないのだ。だから、通りに出ることすらできなくて……

思考が堂々巡どうどうめぐりをしているうちに、いつのまにか立ち上がる力が消えていた。あの火葬かそう部屋で、貧相な取っくみ合いを演じた時点で春樹の体力はきていたようだ。いまさらながらそのことを痛感した。痛感した時点ですでに手遅ておくれだということも、加えて痛感しなければならなかった。

胃壁いへきがこすれるほどハラが減り、未だかつてないほどの倦怠けんたい感におそわれた。それでも春樹は、しぶとく命をつなぎとめていた。これまでためにためた腹回りの肉を体が食いつぶして、エネルギーとして消化しているのがよくわかる。水だって、どこからともなくしたたりおちてきたものが、すぐそばの地面のくぼみにまっていて、こんなきたない水は決して飲むまいとしていたにもかかわらず、気がつけば、春樹の顔がその水たまりのすぐそばに横たわっていることもあった。

さらに一日が経った。もはや指先一本、動かす気力もなかった。このままではぼくは死ぬ。でも、死がこんなにも安らかなら、むしろ早々にケリをつけたい気分だった。これまで受けた仕打ちを思えば、なおのことだ。それでも「その時」は、まだ訪れなかった。

夢もみなかった(いま、あんなものをみたらそれこそショック死するだろう)。おかげで、ただねむることが、何にも変え難く心地よいことを思い出した。

さらに一日が経った。往来の者たちは、春樹の存在に気づいていたようだが、だれひとり手をべるものはいなかった。それでよかった。赤い目なんて、もう金輪際見たくないのだから。

いよいよ「その時」が来たようだ。体の中の何かが、空気のようにけていくのを春樹は感じ取った。それは、疲労ひろうのようであり、空腹のようであり、痛みや恐怖きょうふでもあった。それらが一斉いっせいに体からけていき、ただ一つ残ったのは、ようやく死ねるという安堵あんどだけだった。

安堵あんど……ほんとうにそうか? このまま死ぬのは本当にこわくないのか? 

「やめろ。考えるな。ぼくはもう楽になりたいんだ……」

考えるなと思うほど、考えてしまう。ほんとうに、それでいいのか、と。なにも思い残したことはないのか、と。

「やめろ……」

あるはずだ。望めば、手に入らないことに絶望する。それがいやだから、考えないようにしているのだろう? さぁ、望みを言ってごらん。

「秋人……」
 春樹は言った。
「父さん……鈴子すずこさん……」

もう一度、家族と会いたかった。

「いやだ、死にたくない……秋人……助けて……」

「お、やっぱりだ。ただの子どもじゃないか。しかも人間だ。どうして火葬かそう屋の服なんか着ているんだ?」

だれかが、春樹の顔をのぞきんだ。

「しっかりしろ」
 声の主が、もはやピクリとも動かぬ春樹のかたに手を置いた。
「いま助けてやるからな」

春樹と同じくらいの背格好の少年だった。その目はやっぱり赤色だった。


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