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{ 20: 健康生活 }

{ 第1話 , 前回: 第19話 }

貸し切りのジムで一時間ほど運動したあと、黒い大理石のシャワー室で、頭のてっぺんから熱い湯を浴びた。自分の体質にあわせた特注のスクラブ石鹸せっけん泡立あわだて、毛穴という毛穴から体の老廃物はいぶつぎ落とすと、バスタオルをこしに巻いて洗面台の前に立った。「ゆか面積」と呼んでも差し支えない大きさの鏡に、上半身ハダカの自分がポツンと映っていた。マッサージ師、美容師の双方そうほうが、「まるでゆで卵」と称賛しょうさんしてやまないツルツルのはだにクリームをりながら、春樹は体を入念にチェックした。

「よかった……」

かたの傷口は、もうふさがっているようだ。二週間ほど前、医療いりょう用のメスでスパッとかれたところだ。でもここだけちょっぴり乾燥かんそうしているようだし、クリームを多めにねりこんでおこう。

春樹はバスローブ姿のまま、自分のウォークイン・クローゼットに移動した。そこでぱだかになると、ブラックからネイビーまで、あるいはベージュからグレーまでグラデーションで並んでいる数十着のスーツの中から、今日着ていく服を選びはじめた。

「そうだな……今日は、こっちのチャコール・グレーにしようかな? 最近は、マリン・ブルーのスーツばかり着ていたし」
 春樹は、白樺しらかば製のごついハンガーをつかみながら、灰色と青色のスーツを見比べた。
「シャツは、基本に立ち返って無地の白にしよう。でもネクタイは、いつもと変化をつけてあざやかな色にしたいな。モス・グリーンはどうだろうか。うん、それに決めた!」

オーダーメードのジャケットをまとえば、その下の絹シャツも別格の肌触はだざわりだった。服が自分の体型に合ってさえいれば、スーツを着ることは、単なる作業でもなければ、日課でもなくなる。自分が毎日生まれ変わるための儀式ぎしきと等しくなるのだ。秋人が毎朝、ネクタイをきちんとめていた理由を春樹はいまさらながら理解できた。

えりのボタンを留めている時に気づいたのだけど、首の側面に見知らぬ傷があった。新しい傷ではないようだ。治りかけている。ナイフでしたあとかな? いったい、いつこんな傷を負ったのだろう? おぼえていない。

廊下ろうかに出たとき、いだバスローブを外に投げ捨てて置いた。そうしておけば、あとでだれかが回収して、勝手にクリーニングしてくれるからだ。家にいたころ、服を廊下ろうかに投げ捨てておこうものならハウスメイドの鈴子すずこさんがブチ切れていたことを思えば、ここでのぼく待遇たいぐうはエラいちがいだった。

革のくつ絨毯じゅうたんみしめ、春樹は廊下ろうかを歩き出した。重たいくつだったけど、その分、自分の体が大きくなったみたいだ。でも、左の足首がうずくおかげで、そちらだけどうしても引きずり気味なってしまう。すでに松葉杖まつばづえなしで歩けるようになったけど、もう少しのあいだつえを借りておけばよかった。

食堂に着くと、ウェイターがうやうやしくお辞儀じぎをしながら春樹を出迎でむかえた。春樹は、無人の食堂ホールを歩き、隣接りんせつする個室に案内してもらった。もうひとりのウェイターが、椅子いすを引きながら春樹の到着とうちゃくを待っていた。

「今日の担当は、小出シェフだったかな?」
 テーブルに付くなり春樹はたずねた。

「さようでございます」
 春樹が椅子いすに座るのをサポートしながらウエイターは答えた。

「今夜は、小出シェフにすべてまかせるよ」
 春樹は言った。
「フルコース、満漢全席、懐石かいせき料理……およそここで食べられる料理はすべて食べてしまったからね。これからは、担当シェフの個性、創作性を存分に確かめていきたい。ただ、できるだけ季節の食材を取り入れるようにしてほしい。トマトだけは絶対にダメだけど。それと、飲み物も君たちに一任しよう。赤ワインとアセロラジュース以外だったらなんでもかまわない」

料理が運ばれてきた。豆腐とうふしゅん魚介ぎょかいのオードブル、ピーマンやえんどう豆など本来生食には適さないはずの野菜を活用したサラダ、収穫しゅうかくしたてのトウモロコシでつくった冷製ポタージュスープ、主菜のひとつは北海道ニシンのムニエルだった。どれも味もいろどりも見事だった。

ハリ孝之たかゆき拷問ごうもん官は、医師免許めんきょを持っているだけあって、さすがプロと呼ぶべき仕事をしてくれた。かれは、どうやったら効率よく人を痛めつけられ、なおかつ対象の体をこわさないでいられるかを熟知している。春樹が苦痛にさいなまれるよう様々なやり方を創作する一方で、決して後遺症こういしょうを残さないようにしてくれるのだ。どんなに顔面をなぐられたとしても、歯は一本も欠けていない。あごへの負担も最小限で、やわらかいものなら問題なく、おいしく食べられる。口の中の傷にソースがしみることにも、すっかり慣れてしまった。

まもなくして、メインディッシュが運ばれてきた。しり肉からモモ肉にかけての分厚いステーキ……春樹の大好物だ。

「まったく! せっかくジムで運動したというのに、毎日おなかいっぱい食べてちゃ、いつまでたってもせられないじゃないか」

春樹は文句を言いながら肉にナイフをみ、切り分けた。

「ん……?」

ナイフがストンと皿まで落ちた。その途端とたんに、春樹は固まった。なぜならお肉の内側が、バラのように真っ赤だったからだ。

春樹は奇声きせいをあげながら、テーブルを思い切りたたいた。いや、そんなことしても意味がないとすぐに気づき、皿を取るなり肉ごとかべたたきつけた。

あまりに突然とつぜんのことで、ウェイターはふたりとも飛び上がった。どちらも春樹の二倍以上の年齢ねんれいであるにもかかわらず、その癇癪かんしゃくに心底おびえた様子だった。

ぼくにサーブするときは、真っ黒になるまで肉を焼けと言っただろうが! さっさと作り直させろ! いや、別のシェフを呼んで、そいつにつくらせるんだ! ステーキを生焼けにするマヌケは、二度とぼく厨房ちゅうぼうに立たせるな!」

ウェイターのひとりが、あわてて部屋を出ていった。

春樹は、椅子いすに座り直すと、歯を食いしばってそれ以上の癇癪かんしゃくおさえた。クソが! よりによってレアだと! 中がほとんど生のままじゃないか。肉、血のしたたる肉……赤色の肉……なんで、ぼくがこんな目にあわなくちゃならないんだ……

「飲み物を」
 春樹は言った。

残っていたウェイターが、飛び散った肉と、粉々になった皿を片付ける間もなく、あわてて飛んできて、春樹の目の前に新品のシャンパングラスを置いた。ボトルから液体を注ぐと、砂時計の砂のようにきめ細やかなあわがグラスの底からき立ち、さわやかであまかおりが春樹の鼻にせた。

「ペプシです」
 ウェイターが言った。

「ありがとう」
 春樹は言った。

食事が終わると、春樹はラウンジで読書をした。コーヒーと一口サイズのチョコレートをつまみながら、革張りのソファーに身をしずめ、お気に入りの本を読んだ。すなわち、東京都市出版の「電気工事施工しこう管理・基礎きそ編」だ。キルヒホッフの法則を知ることで、オームの法則への理解が一段と深まることを春樹は学んでいた。

読書をしているうちに、ねむくなってきた。もう十一時ごろだろうか? 時計がどこにもないせいで、正確な時刻はわからないけど、きっとそれくらいのはずだ。好きな時に好きなことができる今の生活になってから、時間なんてものは無意味な概念がいねんになっていた。だから、春樹の独自のこだわりにより、時計のような道具はいっさいはらっていた。もちろん早起きの必要だってないけれど、それでも健康のため、少しでもねむくなったらるようにしていた。

今日も、いい一日だった。生きているとはなんと素晴らしいことなのか。春樹は満足して、病室もねる自分の寝室しんしつもどった。

ベッドの横に、拷問ごうもん官のハリ孝之たかゆきが座っていた。ユウナ博士が、春樹の見舞みまいにやってきてときに使ったあの椅子いすに……春樹が生まれて始めて拷問ごうもんを受けたあの椅子いすの上に! 

がこみ上げてきた。消化して、便として処理するはずだった全てのモノが、そうなる前に引き返したいと、春樹の内蔵をドアのようにたたいていた。オードブル、サラダ、スープ、チョコレート、それからウェルダンに焼いたステーキ、そのすべてがいへし合いしながら食道にせまってくるようだ。春樹は手で口をおさえ、ふるえる声で言った。

「きょ、今日はお休みでは?」

「その予定だったが、供給量が足りていない」
 ハリ拷問ごうもん官は言った。
「先月のテロ以来、ヤツらの活動も目に見えて増えているのだが……問題は、血の『結晶けっしょう率』が近ごろ低くなったことだ。君がどんなに血を流したとしても、それが固まって武器とならなければ意味はない。痛みを感じた際に結晶けっしょう化する性質をかんがみれば、血が固まらない原因は、君が痛みに慣れたからだと思う。だから、今から新しい方法を試したい」

「いやです。今日は、かんべんしてください」

春樹はふるえていた。と悪寒が、洪水こうずいのように体をめぐり、毛穴という毛穴からあせした。そんな状態でどうして立ったままでいられるのか、自分でも不思議だった。

「すまない。君が絶望すればするほど、結晶けっしょう化の確率が高まることは、もうわかっているんだ」

ハリは、椅子いすから立ち上がり、早足で春樹のもとに近づいた。こんなふるえる足では、げようもなかった。ハリは、春樹のかたをつかむと、もう片方の手で思い切り腹をなぐった。腹の中のものが、ドベドベと出てくる。真っ赤でするどい石のような何かが嘔吐おうと物の中にまぎんでいた。ハリは、それを素手でひろいあげた。

「上出来だ。しっかりと結晶けっしょう化している。やはり内臓の血でできた結晶けっしょうは、大きくて美しいな……」

いつも血だらけにしているのに、これ以上、部屋の絨毯じゅうたんよごしていいのだろうか? スーツだって、せっかくのおろしたてなのにこのザマだ。ゆか汚物おぶつの上にくずちた時、くさった便所以下のにおいが鼻経由で脳天にせた。春樹は、それがトドメとばかりに気絶してしまった。


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