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月面ラジオ { 21: "夜の博物館" }

あらすじ:(1) 30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。(2) おとなになった月美は、研究者にりました。研究者として、月を目指しています。

{ 第1章, 前回: 第20章 }

次の学会のために月美は研究論文を書かなければならなかった。
実験はもう終わっている。
あとは原稿を書くだけなので気は楽だった。

週に二回ほど、講義をするために大学へ行かなければならないし、博物館の公開講座のような仕事もある。
でも、それ以外の時間は自由だった。
だから月美は、古いノート型のコンピューターをもって、どこへなりと出かけるのだった。
座ってだれの迷惑にもならなければ、そこは月美の職場となる。
朝は近所の図書館に出かけ、何か興味深い本を見つけたら、それを読みながら論文を書く。
昼は気ままに街を練り歩き、公園のベンチや駅のベンチに座ってサンドウィッチを食べながら論文を書く。
夜は二十四時間やっている喫茶店だ。
下宿先に芽衣の友だちがやってきて騒がしい時はよくこの喫茶店に避難した。
そして表通りを行き交う車のヘッドライトを眺めながら夜中まで論文を書いた。
電車に乗って遠い場所まで出かけ、誰もいない神社の軒先に座って論文を書くこともできる。
アパートでお昼ごはんを食べながらだってかまわない。

そんな風に日々は過ぎていき、夏の終わりがやってきた。
論文は完成した。

月美は研究室の冷蔵庫から缶ビールをとりだし、ひとりで祝杯をあげた。
夜の十一時を過ぎたころで、大学は静まり返っている。
研究室でビールを飲むのは楽しい。
「学び舎での飲酒は、学問が始まって以来の伝統」というのが、幾人もの教授たちと月美自身の主張するところだった。

月美のいる研究室は、大学の隅の建物のそのまた隅にある。
古くて安っぽく、大きいだけの建物で、路面樹に囲まれ、秋になれば土に山盛りの落ち葉が貯まる所だけど、月美はそんなところが気に入っていた。
外から虫の音が聞こえた。
夏の終わりを待ちきれずにやってきた秋の虫たちだ。

「こんな都会に……」

あたりは民家と駐車場しかないのに、どうしてこんなにも虫がいるのだろう。
虫はどこにでもいる。
きっと月にだっているんだ。

「今夜は月が見えるかな?」
 月美は思い立って窓に近づいた。

その時、背後の扉がとつぜん開いたので心臓がはねあがった。
こんな真夜中に不意の来客だった。
ふりむくと背の高い男が立っていた。
おとなになったハリーポッターをアジア系にしてスーツを着せたらこうなるのだろう。

「子安くん! なんでここに?」

「さきにアパートを訪ねたんだけどモヌケの殻でね。芽衣さんにきいたら、君はここにいるって。」

「どうやってこの建物に入ったんだ?」

「侵入するということにかけては……」
 子安くんが言った。
「僕たちには並々ならぬ実績がある。」

子安くんは胸ポケットからあるものを取り出した。

「芽衣さんが貸してくれたんだ。」

学生証だった。
しかも芽衣の学生証ときた。
芽衣の研究室はここじゃないけれど、同じ学部なので、セキュリティカードを兼ねる学生証があればこの研究棟に入ることができる。

「芽衣のやつ……バレたら大変だってのに。」

「まぁね。それで僕らの友人が逮捕されかけたくらいだ。」

にやりと笑う子安くんは相変わらずやせていて、ひょろりと背が高かった。
おとなになってから二十年ちかく経つのにまだ学生のようだ。

「ところで月美さん!」
 子安くんは改まった様子で言った。
「いっしょに来てほしいところがあるんだけど、忙しいかな?」

「少しだけ。」
 月美はビールの缶を見つめながら言った。

「下に車を待たせているんだ。」

「車を待たせている……ねぇ。」
 月美はからむように言った。
「子安くんもいまじゃ『お抱えの運転手つき』か。たいしたもんだ。」

「お抱えってわけじゃないよ。」
 子安くんは肩をすくめてみせた。
「社用の車を私用で拝借しているだけだからね。」

「社長なんだから、似たようなものだろ?」

「そういうわけでもないよ。」

「ところでさ……」
 月美はおずおずと訊いた。
「タバコは吸える?」

「社用車だから禁煙なんだ。」
 子安くんは呆れながら答えた。

月美が車に乗って案内された場所は、なんと上野科学博物館だった。
もちろんこんな真夜中に開館しているわけがない。
おどろいたことに、子安くんはここでもセキュリティカードを胸ポケットから取り出して、裏口を開けて館内へと入ってしまった。

子安くんは、待機室の警備員に会釈であいさつし、そのまま廊下の奥へと進んでいった。
月美も慌ててついていく。

「私は入館証を持ってるけどさ……」
 月美は前を行く背中に声をかけた。

「不当な侵入に関してはたしかに並々ならぬ実績がある……」
 子安くんは言った。
「けれど、今夜はちゃんと許可をもらっているよ。」

「だれから?」

「館長から。」
 子安くんは答えた。
「博物館のプラネタリウムは、うちの会社の製品なんだ。今夜はそのメンテナンスをしているのさ。名目上はね。」

「どういうこと?」

「メンテナンスの費用を格安にすると宣言して以来、館長とは友達なんだ。だから少々無理なお願いもきいてくれるのさ。」

「なんだか癒着の匂いがするね。」

「まさしく癒着さ。」
 子安くんはあっけらかんと言った。
「でも、夜の博物館でデートをするのが僕の夢だったんだ。ほらごらんよ。」

子安くんが扉を開けるとそこは本当に「夜の博物館」だった。
ふと目をつむるかのように、あっという間に世界が暗くなった。

目が慣れてくると、あたりの様子がわかるようになった。
たくさんの列柱の間に所狭しとガラスケースが並んでいた。

「ここはどこ?」

「本館一階の南翼だよ。」
 子安くんはそっとささやくように言った。
「ほら、江戸幕府の望遠鏡や時計が展示されている……」

「ああ、あそこか。」
 月美はやっとピンときた。
「それにしても……」

十三歳のころから廃墟でキャンプしていたことを思えば、暗いだけの博物館なんて大したことない。
そのはずなのに、これはこれでグッとくるものがあった。
昼は穏やかな光に包まれている展示室も夜だとひたすら不気味だった。
天球儀や月球儀のコレクションは何かの頭が並んでいるように見えた。
数百年前の時計が動くわけもないのに、その針の音さえ聞こえてきそうな静寂だ。

何もかもがいつもと逆になっている。
昼は夜になり、灯りは少なく、喧騒につつまれた空間から人が消えた。
展示品はむしろ月美たちから身を隠したいかのようだった。

「すてきだね。」
 月美は言った。
「私たちのデートにはうってつけだな。」

「さあ、夜の博物館を探検だ。」
 子安くんも静かに言った。

月美と子安くんは、ペンライトを照らしながら展示品を鑑賞した。
展示ケースは顔を近づけるまでどれも中がわからなかった。
ふたりは一つずつ巡っていっしょにケースを覗きこんだ。

水晶に光を当てると輝いた。
ピンに刺さった甲虫の標本も輝いた。
クマの剥製の目のイミテーションもだ。
動物の剥製は、灯りの下にある時よりも生きているように見えた。
暗い場所でこそ死んだものは生き生きするのかもしれない。

気まぐれに階段を上がったり下がったりして館内を巡った。
そのうちに子安くんがある展示品の前で止まった。

「トロートン天体望遠鏡だよ。」
 子安くんが解説した。
「英国トロートン・アンド・シムズ社製。百五十年も昔の望遠鏡さ。高さ三メートルを超え、いまは夜空の代わりに博物館の天井を見上げている。」

かつて望遠鏡づくりに関わっただけあって月美もこの望遠鏡のことをよく知っていた。

「僕はこの望遠鏡を尊敬している。」
 子安くんは言った。
「学生のころは何回もこの望遠鏡だけを見に来たよ。寝袋があれば、こいつの横で何泊だってできるね。」

望遠鏡の製作者も泣いて喜ぶ子安くんらしい感想だった。

ふと足音が聞こえたので、月美は驚いて声をあげた。
子安くんが「シッ!」と言って月美を抑えた。
子安くんは月美の手を引き、望遠鏡の裏にある展示ケースの影に隠れた。

警備員は、懐中電灯を照らしながら月美のすぐそばまでやってきた。
けれど二人には気づかずにそのまま隣の部屋へと歩いていった。

「隠れる必要はないんだろ?」
 月美は声を潜めて言った。

「この状況を楽しまなくちゃ。ただ挨拶するだけだなんてつまらないだろ?」
 子安くんは子供のように笑っていた。

ふたりは歩いているうちに、玄関ホールへとたどり着いた。
まるで迷い込んだかのように。

昼間に公開講座をやっている時と比べれば、玄関ホールもだいぶ雰囲気がちがう。
光もなく、壁に反響する音もなく、石の床もずっと硬かった。
いつもは眩しくなるほど子どもの声が聞こえるのに、今はまるで寂しい夢の中だ。
月美は吹きぬけの渡り廊下を見た。
二階も、三階も、だれも歩いていない。
天井はやけに高い。

「あの天文台にも玄関ホールがあったよな?」
 月美は吹き抜けを見上げて言った。
「こうやってみると、あの場所によく似ている。」

「そうだね……」
 子安くんは言った。
「懐かしいね。学生の頃は二人でビールを飲みながら、こんな風に散歩をしていた。いろいろなところを……」

「うん。」
 月美はうなずいた。

ほんとうに色々なところを歩いた……
夜景の下の路地裏だったり、トラックが通るたびに揺れる高架の下だったり、生物学部の研究棟だったり、見知らぬマンションの敷地だったり……
二人あてどなくぶらぶらしていた。
流石に夜の博物館はなかったけど、ほんとうに色々なところをめぐり歩いた。
夜の都、そのすべてがデートの舞台だった。

月美は大学に入ってからずっと子安くんとつきあっていた。
二人は同じ大学だった。
でも、子安くんが卒業するころにわかれてしまった。
すべて月美のせいだった。
月美は月へ行くことを……
青野彦丸を忘れることができなかった。
子安くんのことは好きだったし、結婚だって考えていた。
それでもだめだったのだ。

「最近、彦丸と連絡をとることはあるかい?」
 子安くんが尋ねた。

「まさか。二十三年間、一度もとっちゃいないよ。そっちはどうなんだ?」

「たまにメールするくらいかな。もっとも、メールするのは僕からで、彦丸はそれに返事をよこすだけだ。」

「あいつらしいな。あいつのおかげで『筆不精』っていう言葉を覚えたくらいだ。」

「近況を知りたいかい?」

「いやだね。」
 月美はきっぱりと言った。
「絶対に知りたくない。」

「月美さんが連絡すれば喜ぶと思うよ。」

「もう私のことなんか忘れてるさ。」

「そんなことはないよ。」

「それにさ……あいつは、手紙とか、連絡とか、そういものは嫌いだったと思う。」

「質問したら、いつも質問以上のたくさんの答えがかえってくるよ。嫌いなようで嫌いじゃないんだ。」

「へぇ。」
 月美は特に関心のない様子でうなずいた。

「いまもよく思い出すよ。月美さん、彦丸、僕の三人で過ごしたあの夏を。僕の中であれほど輝いていた時はない。」

「私もそう思うよ……」

「もし彦丸が月に行かなければ、こんな風に三人で思い出話をしていたかな?」

「さあ、どうだろう……」
 月美は首をふった。
「あいつはふり返らないよ。過去には興味がない。だから月に行ったっきり帰ってこないんだ。」

「ちがいないね。」
 子安くんは笑った。

月美は笑わなかった。

それからしばらく思い出話に花が咲いた。
廃虚の天文台に泊まりこんで電気設備の復旧に勤しんだ。
山の上の駐車場でバーベキューをした。
夜の天文台でカクレンボをした。
夏は三人並んで川面に足を入れた。
冬はテントにこもってあついスープを飲んだ。
紅茶用の砂糖がきれたので、彦丸のおじいさんのキッチンに忍びこんで、お菓子づくりの砂糖を拝借することもあった。

苦労して望遠鏡をつくり、山にこもって天体観測をしたのは遠い昔だ。
思い返すだけで胸に熱いものがこみあがってきて、たまらない。
もう一度あの日に戻れるなら、なんだって差しだせる。

まもなく、ふたりは惑星の展示までやってきた。
そこは一風変わった展示で、ホログラムで映し出された月や惑星が、シャボン玉のように浮かんでいた。
月も地球も金星も、競技用のボールくらいの大きさだった。
絶賛開拓中の火星は赤いボールだった。
木星、土星などの巨大惑星は、クジラのように頭上を漂っていた。
いまにも落っこちてきそうな迫力だった。

「三次元プラネタリウムだ。」
 月美は言った。
「ジェスチャーに合わせて星が動くんだ。」

月美はホログラムの月に向かって手招きをした。
するとその月が月美の胸元までやってきた。

「他にもあるぞ。」

月を指に乗せると、月はバスケットボールのようにクルクル回転し、月の自転と公転の周期が一致する理由をナレーションで聞かせてくれた。
手のひらで握りつぶそうとすれば、どんどんと小さくなるし、息を吹き込めば風船のように膨らんだ。
表面をなぞると、月の地名が次々と浮かび上がってきた。
その中には、月の地下洞窟に作られた月面都市の名前もあった。

「博物館の関係者だけが知っている秘密のジェスチャーもあるんだ。」
 月美が言った。

「どんなのがあるんだい?」

「内緒さ。秘密のジェスチャーだからね。」
 月美は言った。

「教えなくても、芽衣のやつはすべて見破ったよ。」
 口惜しそうにする子安くんを見て月美はつけ加えた。
「頑張って博物館に通っていれば、そのうちわかるようになるさ。」

月美は月を子安くんに向かて投げた。
子安くんはそれを片手で受けとった。

「こうやって見ると月も小さいもんだな。月がそれぐらいの大きさだとしたら、木星はどれくらいになると思う?」

「この博物館より大きんじゃないかな。」
 子安くんは答えた。

「でかいよな。人は月や火星だけじゃ足らず、今度は木星と土星に行くそうだ。芽衣がそう言っていた。あいつも、月の次は外惑星を目指すんだってさ。」

「あの子ならどこにだって行けるさ。」

「そうだな、芽衣にはそれだけの力がある。」
 月美はうなずいた。
「芽衣のやつ、小さなロボットに超電磁誘導の浮揚システムを組みこむんだ。地球の裏に住んでいる連中と開発チームを組んでいる。おろどいたよ。まだ学生だってのに優秀なエンジニアだ。私じゃもうかなわないな。」

「その技術は君が教えたんだ。誇りに思うべきだ。」

「もちろん誇らしいさ。」
 月美は言った。
「でも、ちょっぴりくやしいんだ。あいつだけ宇宙に行けて、私は取り残される。そんな気がしてならない。」

「それはもう決まったことなのかい?」

「いや……私が勝手にそう思っているだけだ。」

「弱気になるのは月美さんの悪いくせだよ。」

「弱気にもなるさ。」
 月美は言った。
「子安くんは会社をつくって成功している。『あなたのとなりに宇宙を』……感動的なスローガンだよ。たくさんの人が、子安くんの望遠鏡やプラネタリウムに感動している。でも成功者に慰められても、激励されても、私は辛いだけだ。あと二年もすれば晴れて四十歳なのに、まだ宇宙に行くことすらできないんだ。」

「そういえば最近、月でダイヤモンド鉱山が発見されたんだ。」

「はい?」
 子安くんが唐突に話をかえたので、月美は変な声を出してしまった。

「ジャイアントインパクト説の根拠となる重要な発見だ。」

うす暗い空間で、子安くんの頬が赤くなったように見えた。
珍しく高揚しているようだ。

「どうしたんだ急に?」

「ちょうど僕も鉱山を発見したところなんだ。ほらここに。」

子安くんの手の中にある月のホログラムが光り輝いた。
すると、月の表面につるはしを持って穴をほる宇宙飛行士の映像がうかびあがった。
炭鉱で働く妖精のように宇宙飛行士がダイヤモンドの鉱山を掘っているのだ。

「どうやったんだ、それ?」

「三次元プラネタリウムもうちの会社で作ったんだ。だから僕もいくつか秘密のジェスチャーを知っている。」
 子安くんは、宇宙飛行士の掘っている地点を指した。
「ここが新しく発見した鉱山だよ。それにほら、こんなこともできる。」

そう言うと子安くんは月の映像の中に手を突っ込んだ。
再び月の中から手が現れると、その中には指輪があった。

「月のダイヤモンドでつくったんだ。」

「冗談だろ? 鉱山は見つかったばかりだ。地球じゃまだ流通していない。」

「無理して手に入れたんだ。」

「いくらしたんだ?」

「年収がまるごと吹き飛んだよ。」

「もしかして結婚指輪?」

「うん。どうしてもこれをあげたい人がいてね。まあ……君のことなんだけど。」

しばらく時間が止まった。

月美は立ち止まったまま動けなくなった。
子安くんも変わらず指輪と月を手にしたままだ。
惑星は二人のまわりを静かに回っていた。
火星のホログラムがふたりの間を横切り、その時やっと月美は自分がプロポーズされたことに気がついた。

「ど……」
 月美はうろたえた。
「ど、どうして私なんだ? 私が月に行きたい理由を知っているだろう?」

「君が二十五年間、彦丸を気にするのと同じだよ。僕も二十五年間、君が好きだった。僕が君と最初に会った時、君はすでに彦丸のことが好きだったよね。僕もその時から君に惹かれていた。彦丸を好きなことも含めて君が好きになったんだ。」

「わ……私は……」

でもそれ以上言葉が出てこなかった。

「たぶん僕たちにはもう少し考える時間だと思う。」
 何も言えない月美を見て子安くんが言った。
「返事はあとでいいさ。月行きがダメになった時でかまわない。」

「不吉なことを言うな。」
 月美が言った。

「返事は月から帰ってきたあとでもいいさ。」
 子安くんは言い直した。
「月美さんのことが忘れられない。」

「ばかだ。おまえは。」

「月美さんほどじゃない。」

「どうかしてる。あんたは頭がオカシイんだ。」

「ひどい言われようだ」
 と、子安くんは笑いながら言った。


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