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月面ラジオ { 1: "夢やぶれし月美" }

30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。はじまります。

この世でもっとも顔の大きい人間がいるとしたら? 

その栄光は、私の姉に輝くだろう。
月美の姉「西大寺陽子」の顔が、アパートの壁一面にひろがって映しだされていた。

中古の「壁紙スクリーン」を月美は買ったばかりだった。
普段はただの白い壁紙だけど、好きなときに映画や衛星放送を映せるというすぐれものだ。
タバコで黄ばんだ壁紙をかえるついでに、部屋をまるごとデジタル化してみたわけだ。

せっかくだ。
試しになにか映してみよう。
そう思った矢先に姉の陽子から映像通信で電話が入った。

映像通信……
見たくもない顔を拝みながら電話する迷惑な発明だ。
だけど今は迷惑じゃない。
壁紙スクリーンを使う機会にさっそく恵まれた。

「久しぶり。」
 という声とともに、陽子の顔がスクリーンいっぱいに拡がった。

思った以上の迫力だった。
肉親の顔面が壁一面を占めるとは思っていなかったので、月美は唖然とした。
なんともはや。
鼻の穴が私の頭と同じくらいじゃないか。
設定ミス? 
なにがいけなかったのだろう? 
コンサートやイベント会場で使われるような大型の壁紙スクリーンを半分にカットして、アパートの一室に採用したからだろうか。

何かこの顔に捧げるものはないだろうかと月美は考えた。
顔面賞? 

月美は笑いをこらえた。
陽子は、そんな月美の様子に気づかなかった。
腹をかかえながら震える月美を心配したくらいだ。

でも、どんなに顔が大きくても、陽子は月美よりもずっと美人だということを思い出し、やがて笑う気をなくした。
十代のころに感じていた劣等感が、今さらぶり返したのだ。

陽子は美人で、優秀で、自分の親からも尊敬されている。
大手企業の最前線で働いているし、家庭も持っている。
つまり月美とはべつの生きものだ。

心の中で陽子を笑いものにしたってむなしくなるだけだった。
何も考えまいと頭をふり、月美は映像のサイズを調整した。

「娘はあなたとおんなじ病気にかかってるの。月に行きたくてたまらなくなる病気のこと。」

そんなふうに陽子は切りだした。

壁紙映像のサイズはほどよく調整できた。
顔だけでなく、陽子の上半身や自宅の様子も映っていた。
陽子はテーブルに座りながらこちらに語りかけていた。

陽子は四十代の母親で、大手企業のお偉方で、女優並みに身だしなみに気を使う。
妹との電話にだって眉メイクを義務化するくらいだ。
左分けにした前髪の下から神経質そうな大きな目がのぞいていた。

月美はスクリーン向かい側の壁によりかかってあぐらをかいた。

陽子にも月美の様子が見えているはずだ。
陽子が顔をしかめているのは、月美の曲がった姿勢や、ボサボサの長い髪や、洗っていない寝起きの顔が目につくからだろう。

とはいえ夜寝ているときに電話をしてきたのは陽子だ。
電話に出る義務もないのにイヤな顔をされる筋合いはない。

「こどもが夢を持つのはいいことじゃないか。」
 月美は言った。
「なんの問題がある?」

「娘があんたみたいになるのが怖いの。」
 陽子は言った。

月美は首を傾げるばかりだった。

「やっぱりいいことじゃないか?」

「いいわけないでしょ!」

陽子が机をドンと叩いたので、月美は飛び上がりそうになった。

「寝ても覚めても、話すことは月のことばかり。やれ月面開発がどうだの、ヘリウムさんがどうだの。まわりとまったく話があわないから、友だちもいない。むかしの月美を見ているみたいよ。」

「陽子が心配するようなことじゃないよ。マイだってもう十七だろ? 気の合う友だちくらい自分で見つけるさ。」

「『マイ』じゃなくて『メイ』よ。」

「ん?」

「娘の名前は『芽衣』よ。それにまだ十三歳。びっくりするくらい違うじゃない。」

「それは、ほら……もう十年くらい会ってないわけだし……」

「去年、伯父さんの葬式であったばかりじゃない。お通夜の席でいっしょにお寿司を食べてたでしょ。」

「ああ、そういえば……陽子のとなりで穴子ばかり食べている女の子がいたけど、あれがわたしの姪だったわけか。姪の『芽衣』ね。私、あいつに穴子とられたんだけど?」

陽子はため息をついた。

「月に行きたいなんて言う人はみんな頭がおかしくなるのかしら。月美もむかしと全然ちがう人になっちゃった。月美が十三くらいのころは……なんとういか、もう少し……」

「親戚の名前に興味を持っていた?」

「もう少しまともだった!」
 陽子は声を上げた。
「月美は大都市で働いて、まあまあ稼ぐ男と結婚して、ローンで買ったベッドタウンの家に『幸せ』っていう壁紙を貼りつけて、平凡な家族とそれなりの人生を過ごすもんだと思ってた。月美は、頭はいまいちだけど、要領はよかったから私よりもずっと幸せに生きられたはずよ。それなのに頭はいまいちなまま、ひたすら要領の悪い研究者になっちゃって。給料はやすいし、結婚できないし、住んでるアパートはぼろぼろだし、おまけにがさつで、部屋はタバコの吸殻だらけだし……」

すごい言われようだなと月美は思った。
言い返せないのが悔しいかぎりだ。

「今日はいったいなんのようだ? わざわざ私をバカにするために連絡をよこしたのか?」

「芽衣に会ってほしいの」
 陽子が言った。

「会う?」
 月美は、あわてて辺りを見回したけれど、だれもいなかった。
「だれが?」

「月美以外だれがいるの?」

「いやだよ。」

「なんで?」

「めんどうくさい。」

舌打ちまじりの言い草がよっぽど気に入らなかったのか、陽子の口元は見たことないほど震えていた。

「とにかく。」
 と、陽子は仕切りなおした。
「近いうちに顔をだしてちょうだい。仕事が終わったあとでいいから。大切な話があるの。それじゃぁね。」

壁紙スクリーンが暗くなった。
月美の返事も待たずに陽子は電話を切ってしまったのだ。

「強引だな。いつもどおりだけどさ。」

月美はふいに口元がさみしくなり、タバコに手を伸ばした。
けれどライターが手元にないことを思い出した。
研究室に忘れてきてしまったのだ。

「そうだ。」

このアパートには古いガスコンロがある。
ほとんど使ってないけど。
あれでタバコに火をつけたらどうだろうか? 
だめだ。
前にそれをやって、前髪をすこし燃やしてしまったんだ。

あきらめて寝なおそう。
貧乏長屋でビールを飲んで寝なおすんだ。
そして布団の中から夜空を見あげる。
今夜は月がきれいだ。

月。

それは月美とって最も愛すべき天体だ。
同時に、呪いそのものでもある。

月を見る度あいつを思い出すからだ。
夜空を見あげると、そういう義務があるかのようにあいつのことを考えてしまう。
ほとんど条件反射のようなものだ。

あいつ……
青野彦丸……
わたしを、呪われた人生に引き込んだ張本人。
わたしを置いてさっさと月にいってしまった昔の男。

あいつは今ごろ月で何をしているのだろうか。
結婚はもう済ませたのだろうか。
あいつは変わり者だった。
もてないし、まだ独り身のはずだ。

そんなわけないか……と、月美は首をふった。

それは私の願望にすぎない。
私は、あいつが三十過ぎてもまだ結婚していないことを望んでいる。

月を見上げるたびに虚しくなる。
そんな自分がイヤでたまらなかった。

それは天体観測をしていた時のほんの一幕だった。

月美は、親しい少年と山中でキャンプをしていた。

「行ったことがないからあの場所に行くんだ。」
 十六歳になったばかりの少年は、夜空を指さしながらそう言った。

少年の見つめる先に月があった。
天の宝石と呼ぶにふさわしい黄金の輝きだった。

「僕はいつかあの場所に立つんだ。」

それから少年は大人になり、本当に月まで行ってしまった。
彼は月に街を作り、そこへ移住することになる。

このキャンプでのできごとを大人になった今でも月美はもよく覚えていた。
彫刻刀で絵を掘るように少年との思い出を心に刻みこんでいたからだ。
怪物の体内のような森も、夜を掻き消さんと燃える焚き火の炎も、炎より鮮烈な少年の顔も、なにもかもだ。

いつも少年のそばにいた月美は、自分も月へ行きたいと願うようになった。
でもそんな願いは叶わないと、ほどなくして知った。
月に行けるのは選ばれた人間だけで、月美にはそれだけの力がないと学校で教えてもらった。

おとなになる前に月美と少年は離ればなれになった。
少年は、遠い世界へと旅立ってしまったのだ。
ただひたすら遠い世界……
三十八万キロの彼方へと。

「月に行きたくてたまらなくなる病気」

月美はそんなものになったおぼえがなかった。
少なくとも自分ではそう思っている。
月に行く夢なんてとうの昔にあきらめたんだ。

なんたって月美が住んでいるのは宇宙どころかただの安アパートだ。
うす汚れたトタン屋根と、赤錆の階段と、ホコリだらけの畳しかない。
冷暖房も(あるだけましという見方もあるが)いつだって調子が悪く、湿気の強い季節は地獄だ。
冬はすなおに寒い。

「こんなオンボロのいったいどこに『夢』なんてものが転がっているんだ!」

叫びながら月美は畳の上にころがった。
窓から刺す月光が舞い散るホコリに乱反射した。
そこらじゅうに投げすてたビールの空き缶と吸殻が目に映った。
なんと貧乏じみた光景だろうか。
自分の人生の凡骨ぶりに月美はショックを受けてしまった。

これはつまりあれだ。
「夢に敗れた女」を「夢見る少女」に会わせるという残酷な企みなのだ。
月美という残念な現実をまのあたりにすれば、芽衣も「無謀な夢」でなく「現実的な将来」というものに向き合ってくれるはずだ。
そんな風に陽子は考えているのだろう。

陽子も退屈な女になったな、と月美は思った。
以前の陽子は、海外の大手企業(それも、とびきり有能な人しか雇わない)に就職し、ユーラシア大陸やインド亜大陸のあらゆる地域で働いていた。
聡明で行動的な姉に月美は心の底から憧れていた。
もちろん、妬みといった泥のような感情も含む「尊敬のまなざし」だったことは否定しない。

そんな陽子も、自分の娘には「月など無謀」と言わんばかりの画策だ。
自分は無謀な挑戦をくり返し、いまの地位と生活を得てきたというのに。
それともこういうのが母親の習性なのだろうか。

「母親か……」

月美はもう二十九だけれど、そんなものになれる気がしない。
自分が結婚して、子どもを育てている姿なんて、吸い殻まみれの生活からじゃ想像もできない。
そのうち体からカビが生えてくるんじゃないかと月美は思っている。
月美にとって結婚とは、砂塵の向こうの蜃気楼のような不可解な現象だった。

月美は立ち上がった。
部屋のすみの冷蔵庫を開け、中をのぞくことなくシンハのビール缶を取り出した。
まったく迷いのない一連の動作は、そういう習性の生きもののようで、なおいっそう自分がなさけなかった。

月美は部屋の反対側まで歩くと、立てつけの悪い窓をこじ開けて五月の満月を見あげた。
月美にとって太陽よりもまぶしいあこがれの天体だ。
是が非でもそこに行きたかった。
行きたいと願うようになって十年以上たった。
けれど、行ける見込みはどこにもなかった。
月は選ばれた者だけが立てる天体なのだ。
死ぬまで行くことはないだろう。
おそらく人並みに長いであろう人生において、わたしは何ひとつ偉業を成すことができず、月に憧れるだけの人間で終わる。
このごろはそう自覚するようになった。

自分は陽子とちがう。
月に旅だった少年ともちがう。
陽子の娘はどうなのだろう、と月美は思った。

いったいどんな女の子だった? 
叔父さんの葬式の時、月面開発の話なんてしなかったはずだ。
月に行きたい少女は、あの少年と同じように輝いているのだろうか。

「せっかくだし会ってみようかな……マイに。」

月美はシンハのプルトップをカリカリとひっかいた。
窓枠にこしかけようとしたけれど、落下防止の手すりが外れそうになってあわてて飛びのいた。


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