無意識を意識する

僕は子供のころ酷い喘息をわずらっていて、季節の変わり目ごとに発作が出て何度も死を覚悟していました。
発作が出るとどうなるのかと言うと、息をするのが本当に難しくて、寝床から5メートル離れたトイレに行くのにも途中休憩を挟まないと辿り着けないほど息切れがひどいんです。
疲れ切って寝てしまえば苦痛から逃れられるものの、息を吸って吐くのに細心の注意を払わないと死ぬんじゃないかという恐怖も相まって、なかなか寝ることも出来ない。
そんな発作に苦しむ中、僕はある気付きを得ることができました。

「普段健康な時に無意識に出来ている事でも、意識をすると難しい。」

典型的な例を挙げると、運動会の行進の練習の時に手足が一緒に出てしまう子って居ましたよね?
人間って心臓を始め無意識で動いてる部分ってめちゃくちゃ多くて、みんな生まれながらにかなりのマルチタスクをこなしてるんです。
それに気づいてから僕は自分の身体の細かい動きを意識するようになりました。
たぶんぎこちない動き方になったりして変な奴と思われていた事でしょう(笑)。
やがて僕は大人になり、ある禅の言葉に出会います。

「行亦禅 坐亦禅 語黙動静体安然」

坐禅をしたり、写経をしている特別な時だけが禅ではない。仕事をしたって、遊んでいたって日常のすべてが禅の実践です。
禅を実施することは、モノに心を奪われないから贅沢をしないし、いただいた身体だから大切に、暴飲暴食もしない。
自分の中にある純粋で素直な本来の自分といつも言葉のやり取りをしているから現象に騙されずに生きていかれる。
無理をせず背伸びをしないで、あなたはありのままのあなたでいられる。といった意味です。
僕が小学生の時に得た気付きは、まさしく禅そのものだったんだなと少し自慢げになったのを覚えています。

僕は学歴はありませんが、自分の内部と真摯に向き合うことで大きく成長できたと思っています。
そして僕の哲学的観点で言うと、自分の中に世界の全てがあると考えています(この話をしだすと長くなるのでまた今度)。

子どもの頃の気づきが人生においてこれほど重要な価値観になるとは思ってもみなかったんですが、この先の人生も少年カナメ君に教えを乞いながら正しく生きていきたいと思います。

僕の記事はお気に召しましたでしょうか? これからも皆様に喜んでいただけるような記事を書いていきますので、サポートしていただけましたら嬉しいです!