論理的に説明できない大切なこと

この世は論理で全てのことを説明できると思っている人がいるみたいだ。
例えば礼儀作法について戦後からだんたんその意識が薄くなっているように僕は感じる。もっとも僕は平成10年生まれなのでそれ以前を実際に見ていたわけでは無いですが。

僕は、例えば、食事のマナーについて母親からよく注意を受けていた。だいぶマシになったが今もやはり注意は受けます。
ここで仮に、以下の会話をしたとする。

「たとえ食事のマナーが悪くてもお母さんに迷惑かけてないじゃないか。お母さんの食事を邪魔していたのなら分かるけど」。すると母親は「その通り。迷惑はかけていない。でもダメなものはダメ」と言うだろう。「何がダメか説明して」と僕は言う。そして母親は「説明なんか出来ない。ダメなものはダメ」と言うだろう。
果たして正しいのは僕か母親か。

一般に礼儀とは、または規則や法律と言ってもよいが、・・・しなさい、・・・してはいけない、といった類いのものだろう。
そしてそれらの礼儀に対して反抗の態度をとる人もやはりいる。

ではそれらは何のためにあるのか。
礼儀作法というのは長い時間をかけて人類が形成してきた精神の土台を作る言わば型みたいなものです。
そして人はそれを他者には「守りなさい」と要求する他ありません。先ほどの母親のセリフみたいに。なぜならその精神の型で培ってきたものは長い時間それを繰り返し守って身体に身につけた言わば作品のようなものです。それを言葉で一瞬で言葉で分からすのは不可能です。だからどうしてもそれを相手に求めるしか親はできないのです。

そもそも世の中には論理で説明できないことはたくさんあります。
例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えを提示することはできません。
殺されると周りの人間が悲しむからダメと言いますが、では周りが悲しまなかったら殺してもいいという理屈が生まれます。正当防衛という合法的に殺人が許される場合があります。
そもそも僕たちは毎日殺すということをしています。
例えば、虫なんかどうでしょう。殺していますよね。毎日食べる食事について、どうでしょう。肉や野菜はどこから来ているか。生き物からですよね。
それは僕たちが直接手を下しているわけではないですが、やはり誰かの手を借りて間接的に殺していますよね。
僕たちの手には見えない血がべっとり付いています。
人間は生きなければならないというのは人間の勝手な理屈です。

礼儀作法も同じです。この型を身につけると人間の精神の成長に最も適していると人類の文化と歴史が証明し続けたのです。

では、僕たちは親の言うこと、先生の言うことを絶対に聞くしかないのだなあ、と思うのは間違いです。

あくまで判断はその人の中にあるという事です。
どうしても礼儀作法を守りたくない、そんなことをしなくても人間の精神を成長させることが出来る、というのならそれでもいいです。
学校では廊下を走ってはいけないとされていますが。どうしても走りたいならそれでもいいです。

しかしそのことが必ずしも善いこととは限りません。全く逆で凄く悪いことかもしれません。ですが、もし、とてつもない大きな罰を受けたとしても、どんなに周りから非難されようとも、後悔などあるはずがないでしょう。
だって、それは、自分で選んだんだから。

大事なことなのでもう一度言います。
善悪の判断は自分の中にあります。
その判断はとてつもなく考えることが必要とされるでしょう。
もしその判断を誤って、悪い道に走って、この上なく後悔しても、人のせいにはできません。
なせならそれは自分で選んだ道だから。

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