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【4-0508】祖父はとんぼ

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。

関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

なんの脈絡もないのだけれど、今日急に、亡くなった祖父がとんぼの姿で私や母のことを見にきてくれている、と言われていたことを思い出した。

私の母方の祖父は、母が小さいときに事故で亡くなっている。会ったこともない祖父に対して、私が存外はっきりと「じいちゃん」という感覚を持っているのは、仏壇の写真を見ていたからだけではなく、母が都度都度「じいちゃんはとんぼになって戻ってきている」と言っていたからだと思う。不思議なことに、確かにその頃の私は、近距離を飛ぶ、逃げないとんぼをよく目撃していた。父大好き娘だったという母はいつも、「ほら、じいちゃんが見守ってくれてるよ」と私に話して聞かせた。だから、私はじいちゃんは都度都度とんぼになって帰ってきている、というのを受け入れていた。信じるとか信じないとかそういう次元ではなく、何となくそういうものなのだろうと思っていた。確か、そもそも、祖父の葬儀か四十九日か、そんなタイミングでとんぼが現れた、みたいな話だった気がする。当時の私はそういう「物語めいたもの」を持っていることをうらやましいとさえ思っていた。それは今でもうらやましく思うが。

このことを思い出していて、ふと「じゃあ、祖母は何になるのだろう」と思った。祖母が亡くなって、あっというまに2ヶ月経っている。四十九日の法要もとっくの昔に済んでしまった。

誰かが「ばあちゃんは〇〇になって見に戻ってきてるんだよ」と言ってくれたらいいのにな。そうしたら、私はあっさりとそれを受け入れられると思う。ばあちゃんが新しく持った物語を一緒に抱えていたい。

そうか、母に聞いてみたらいいのかもしれない。四十九日あたりで何かあっただろうか。祖父がとんぼだったなら、祖母はなんだろうか。どんな姿でもいい。現世での再会を喜ぶ準備は出来ている。



いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴