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【3-1016】鏡になっている

【このnoteを開いてくださった貴方へ】

こんばんは、要小飴と申します。


関西にある遊気舎という劇団の末席に身を置き、演劇に勤しんでいる者です。平日昼間は保育園の先生をしています。

このnoteは、そんな私が日々の所感を記録しながら、自分の思考を再確認したり、自分なりの表現を探したりする、そんなものにしたいと思っています。

二歳児クラスの担任をしている。朝の会や帰りの会、絵本を読む前などに季節の歌や手遊びの歌を歌う。

二歳児と言うと、まだみんながみんな日常会話ができるわけではない。当然歌も、歌う子歌わない子、どちらもいる。

ちなみに、もっと小さい赤ちゃんのクラスでもこういう歌の時間というのは必ずある。歌えない赤ちゃんたちにとって、大人が歌っているのは自分が歌っているのと同じなのだ。だから、こういう小さい子たちのクラスでは、基本的に大人が大きい声で歌う。

私は特に歌うのが好きなので、子供たちの前でよく歌を歌う。ぎゃん泣きしてどうにもならなくなった子には、抱っこでひたすら歌いかける。「はらぺこあおむし」の歌や「アンパンマン」の歌。だんだんと、泣くという自身が発する行為から、聞くという受け身になる行為に移行していって、落ち着いてくれることが多い。

二歳児クラスも10月になってくると、だいぶしっかりしてきた。すると、嬉しいことに、一緒に歌ってくれたり、手遊びをしたりしてくれることが増えてくる。

先日、おかえりの歌の最中、前で振りつきで歌う私とピッタリ同じタイミングで「気をつけ」をする子を見つけて、驚いた。かなり詳細に私の動きを覚えて(他の先生はそこで「気をつけ」はしていない)、真似をしてくれていた。また、別の子だが、今日は私が絵本の前に好んでやる「チョキチョキダンス」をかなりノリノリでやっている子を見つけた。普段、話も聞かずに走り回っているような子だ。

意外とちゃんと見てくれているんだ、ということ、そして、真似をして一緒にやってくれるそのことに大きな喜びを感じる。一方通行ではなく、矢印が双方に向き合っている。大人同士のそれとは違う、子供と私の間に私たちならではのコミュニケーションがある。

このコミュニケーションを心底、大切にしたい。もちろん、一人の人間として独立しているあの子たちだが、ある意味で鏡のように映る。自分がどう振る舞うかによって、子供の状態が変わっていく。透き通った鏡だ。割らないように、透き通ったままこれから色んなものを映していけるように、今の彼らの前に立たなければと思う。

いつも見守ってくださってありがとうございます! これからも表現活動、創作活動に勤しんでまいります。 要🍬 小飴