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8月11日は「インスタントコーヒーの日」

コツコツと石の床材が鳴っている。僕は彼女の顔を見たことはなかったし、なんだったら彼なのか彼女なのかすら知らなかったが、そのハイヒールの音だけで彼女がそうであると確信した。

僕が15分前から座っている、このボックス席の前でコツコツはピタリと止まり、喫茶店に流れていた曲名は知らないが流行りのジャズっぽい曲も、他の客たちの楽しそうに話す話し声も、静かに一生懸命仕事する空調の音も、僕がコーヒーをかき混ぜる際にスプーンがカップにあたる音も、

一瞬止まった。

気がしたが、これは僕が感じたものすごく主観的な事で、はじめのコツコツという音を聞いてから何かの魔法にかかった可能性も十分あった。

「11時の約束で、今は10時50分。あなたは何時にここに来たの?」

足音の主である彼女は、僕の目の前に座りそう言った。その顔は冗談抜きで顔の半分くらい、本当に半分くらいが大きなサングラスで覆われていた。その黒いサングラスには間抜けな顔の僕が二人も映っていた。

「10時35分に着きました」

「そう。あなたは時間をきちんと守る人なのね。素晴らしいわ。約束の時間に遅れるなんて、時間泥棒と同じことだもの」

「えぇ、その通りだと思います」

その時、ウエイトレスが水を持ってやってきた。

「コーヒーを一つ」と彼女は言った。

しばらくして、彼女のもとにコーヒーが運ばれ、これでこのボックス席にある黒くて丸いものは彼女のサングラスの右と左と、僕のコーヒーと彼女のコーヒーの合計4つとなった。しかし今のところは3対1で僕のほうが圧倒的に不利だった。

「例のモノは用意できたかしら?」

例のモノと言われ、僕が思いつくモノは一つしかなく、その一つのモノが僕と彼女の唯一の接点だった。

「もちろん、用意できています。二重暗号化してあるモノをお持ちしました」

「なるほど、約束の時間はしっかり守り、仕事の納期もしっかり守る。素晴らしいわ」

僕は持ってきた四角いカバンから封筒に入った書類を彼女の前に差し出した。彼女は何も言わずに封筒の中から書類を取り出し、パラパラとページを眺めた。

その間も、決してサングラスは外さなかった。

「何が書いてあるかさっぱり分からないわね」

「そりゃそうです。暗号化されてますからね。一般の方がちょろっと見ただけでは解りませんよ」

彼女のサングラスにいる二人の僕は偶然にも同じように少し困った顔をしていた。偶然にも二人とも。

「あなたが暗号化したこのマニュアル……その何て言うか、何のマニュアルだかご存じ?」

「詳しいことは知りません。事前に頂いた情報には何のマニュアルかは記載がありませんでした。僕に分かることは普通の生活をしていれば絶対にお目にかかることがないような、極めて専門的な機械のマニュアル……だということです。暗号化が僕の仕事です。それ以外には興味はありません」

「極めて専門的な機械」そう言い彼女は少し笑った。

笑ったその目を見て見たいなと僕はその時思った。しかしそう思う僕の顔を僕は見るしかないのであきらめた。

「その極めて専門的な機械で何かを生み出すのか、はたまた何かを破滅させるのか、僕には分かりませんが願わくば前者であってほしいものです」

彼女は書類を封筒に戻し、その封筒を彼女の持っている小さいポーチへと仕舞った。どう考えても封筒のサイズの方が大きくてポーチには入りそうにはなかったが、小さいポーチは魔法のように書類を飲み込んだ。何か特別なことが今目の前で発生した気がしたが、クライアントへ渡した書類がどうなろうと僕にはもう関係がなかった。

「振り込みは事前にお伝えした口座へお願いします」

「えぇ、分かったわ」その時はじめて彼女はコーヒーを口にした。

「私コーヒーを飲むたびに思うんだけど、家で作るインスタントコーヒーも、こういうお店の喫茶店のコーヒーも、なんだったら誰かがふざけて作って出したニセコーヒーもみんな同じ味がするの。よくお店で出される高いコーヒーはおいしいと言うけど、そんなの全然分からないの。
私にしたらどれも黒く濁った苦いお湯よ」

「あなたはコーヒーお好き?」

「えぇ、好きです。仕事の合間によく飲みます」

結局彼女はコーヒーをその後ほとんど飲まず、白いカップには並々とコーヒーが残っていた。そして最後まで彼女はサングラスを外すことはなく、僕は彼女に映る二人の僕を相手にしていたような気分でそのうちの片方が、

「仕事の合間によく飲みます。だってさ、カッコつけちゃって! 砂糖入れないと飲めないくせに!」

なんてことをばらさなくてよかったと思った。

これで仕事が一段落し少しほっとした。帰りにワインでも買って帰ろうという考えが思い浮かぶくらいは。

8月11日は「インスタントコーヒーの日」

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