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執着や手元にあるものを手放すと新しく良いものが舞い込んでくる説は本当なのか?

30代中盤になろうとしている私、もちろん年齢的にまだまだ若輩者であることは百も承知でいうのだが、タイトルの結論は


「そうでもない」


過去の恋愛もきれいさっぱり、むしろ絶縁状態で完全に捨て去ってきたし、仕事も潔く辞めて次!みたいな生き方をしてきたのだけれど、案外今の自分に「手放したら次に素敵が舞い込んできた~!」という感じがしない。

ちょっと極端な性格でもあるからか、手放すとなればズバッと捨て去る潔さには自信がある。

ただ、それによって、いま良い結末を迎えているかといとそうでもない。

いや、もちろん人生の結末は死ぬまでだから、いま結論出すのは時期尚早では?と言われればそれまでなのだが、数年単位で節目節目を振り返ってみて、山を登って高みを目指しているような幸せの積み上げができているような気がしないのだ。むしろ深く潜っている感覚すらある。

もちろん、ため込んでいたり手元にあるものに執着していると次に新しいものを迎え入れられはしない。

ただ、手放したものは本当にそれでよかったのか?という反省はしなくてはいけないとうか、後悔ではなく反省。自分のしてきた行いの振り返りはときどきしておかないと「いま、私何もない・・・」みたいな状況を招く気がしてならない。

実際、わたしが身を挺してやってきたこの体験を振り返ると、ただ単に手放せばいいってもんでもないなあという感覚だ。

手放す行為というよりは、手放す態度とその後の自分の態度というか、何を大事にして手放す行為をするのか、という部分に最終的には帰結する気がしている。

そもそもわたしは人づきあいが苦手だ。そういう積み重ねによって強く深めていくような分野が元々不向きだ。だから、もともと不得手でしていることが手放すってことであって、そういう私にとっては手放すという行為自体が意味をなさないのかもしれない。と感じている。


しかしまあ、このすっからかんの状況は、まさかのまさかだった。

ただ、この状況に驚きはしてはいるものの、悲嘆しているわけではなくて。むしろちょっと想像してなかった展開に驚かされているだけっていうのもあるのだけれど。


少し前までの私は、30代中盤っていうのは今までの何かの積み上げの上にどっしりと自分が鎮座しているイメージだった。

10代や20代の自分や今の若い人が眺められるような少し高い場所でまたしっかり足場を固めて次の高い場所にのぼるようなイメージだった。


どうやら違うらしい。

というか、違うケースもあるらしい。


いまの私は過去の自分を少し見渡せる程度の踏み台の上にはいるんだけど、生き方としてとてもミニマムでコンパクトな状態。むしろ背水の陣。とてもシンプルだけど、この個体がダメになるとすべてが終わるという緊張感の中で生きている。

自分の無意識の志向がそうさせ、そういう生き方をしてきているとうのもある。


身軽だ、自由だ。もしかしたら何をしてもいい。

でも、何をしてもいい=何でもできるではない。


部下や従業員がいるわけでも配偶者も恋人も家族もいない、たった一人で生きている今、何をしてもいい状態に思われるかもしれないけれど、やっぱり何でもできるわけではないなという感覚をうすうす感じている。

それは本人の能力の問題もあるし、嗜好の問題もあるし、なにかしら「枷」がある、それにはある程度自覚的でありたい。

ただ、枷は自覚すれば外せるものだってあるはずで、捉われているのはなんなのか、自分を知ることというのは奥が深いなと思ったのでした。



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