玉川可奈子の秋休み 京都編
いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。
鉄ヲタ女子といふのは、少数ながら生息します。かくいふ私がさうですし、元エビ中の廣田あいか(ぁぃぁぃ)もさうです。
私のやうなガチ勢で堂々としてゐる人はきはめて少ないでせうが、特定の車両や路線が気に入つてゐるといふ人はゐます。
たとへば、私の友達で、かつて羽越本線を走つてゐたきらきらうえつが好きな人もゐましたし、SLに乗りに行くのが好きといふ人、またサンライズ出雲が好きな人、西武多摩川線が好きな人など、マイルドな鉄道ファンは女性にもゐます。
さて、京都の旅を題材にしてnoteに書いてゐる人は多く、どれもとても骨を折つて書かれてをり、感心してゐます。
しかしながら、京都といへば、神社だ、お寺だ、史跡だ、グルメだなんやかんやとなりがちで、下手をするとただの観光案内と化します。内容もWikipediaを見れば大体わかりますし、『るるぶ』でも十分です。観光案内が悪いわけではありませんが、それは私の望むところではありません。
私は過去のnoteを見ていただければわかるやうに、かなりの偏屈です。人と同じであることを好みません。人に合はせられたくもないし、合はせたくもありません。
今回の秋休み。久し振りに京都に来た私は、一切の名所旧跡、神社仏閣を訪ねない京都旅行をいたしました。結論を先に言ひますと、一部の例外を除いて、ただ鉄道に乗つてゐるだけです(相変はらずなのネ)。興味のない方は、スキだけ押してお引き返しください。
前回の記事と比べて、手抜き感があります。どうかご了承ください。
地図(『時刻表』の地図ページを開いても良いです)を片手に、最後までお読みいただけたら幸甚です。
嵯峨野観光電鉄
昨夜、綾部駅近くの安いビジネスホテルに一泊しました。
綾部駅に着いて宿に向かふ途中、「綾部駅前 栄温泉」なる看板に気付きました。
「やつた!温泉に入れる」
すぐに宿に荷物を置き、準備をして向かつたところ…なんと、廃業してゐました。
仕方がないので、部屋に帰り地図を眺めてゐたら、綾部には大本教の本部があるんですね。興味ありませんが。
翌朝…。
綾部駅前のビジネスホテルを出た私は、山陰本線に乗り京都市内を目指します。乗車する列車は、きのさき6号。この列車で亀岡駅まで行きます。
昨夜のうちに指定席券を確保しておいたのですが、その時点で列車はガラガラでした。
七時五十三分。定刻に綾部駅を発車したきのさき6号ですが、やはり空いてゐます。
お陰で快適に過ごせます。
車窓は田舎です。
見てゐて落ち着きます。
綾部駅を出たときには晴れてゐた空が、亀岡駅に着くときには完全に曇りました。
亀岡駅から次の馬堀駅に普通列車で行きます。
馬堀駅に着き、ここから歩いてトロッコ亀岡駅を目指します。
支那人の観光客が目立ちます。わが国のことが大好きなのでせうね。
八分ほど歩いたら、トロッコ亀岡駅に着きました。
駅からしばらく歩くと、足利高氏が自分勝手な祈りを捧げた篠村八幡宮があります。高氏の願ひは叶ひましたが、世の中が混乱し、後醍醐天皇がまことに御心をいためられたのは国史に明らかです。
詳しくは、平泉澄先生の『物語日本史 中』(講談社学術文庫)をどうぞ。
ホームには、何やらたぬきがゐます。
発車までしばらく余裕があるのですが、ホームは早くも人だかりです。
支那人観光客は、黄色い線の外側に出て写真撮影に興じてゐます。民度が低いと言ひたいところですが、わが国の高齢者も似たり寄つたりで、同じやうな行動をしてゐます。哀しい哉。支那人を笑へません。
目の前を山陰本線が走り抜けるたびに、支那人が驚くのが面白いので観察してゐました。
九時二十五分。私の乗る列車、嵯峨野2号がホームに入線してきました。駅員が、一所懸命に黄色い線の外側に出る人を注意してゐました。
車内は満席で、私の前には日本人と支那人の家族が座りました。子供がなんか小さくてかわいいやつのキーホルダーを持つてゐます。
九時三十分、出発。すぐに車窓左手に保津川が見えてきます。
紅葉はしてゐませんが、見事な景色に目を奪はれます。
保津川に 秋は来にけり あしひきの 山のもみち葉 色づく見れば 可奈子
最初のトンネルを抜けると、川下りを楽しむ人の姿が見えました。
山川の このさやけさを うち見れば 外つ国人も 秋を知るらむ 可奈子
JR保津峡駅が見えます。
トロッコ保津峡駅では鐘が鳴つてゐました。
トロッコ保津峡駅から、保津川の景色は車窓右手に移ります。車内では、写真を撮影して売り付ける人が各々の席をめぐつてゐます。前の家族も撮つてもらつてゐました。良い思ひ出になることでせう。
人間にとつて、生涯の宝とは「生きてきた中で何を記憶に留めてきたか」だと思ふのです。物はやがて朽ち、年齢とともに楽しめなくなりませう。若いころ、野球の巧みであつた人が、良いバットを使つてゐても、年を取ればそれを使ひこなせなくなるやうなものです。しかし、記憶は忘れない限り死ぬ瞬間まで残ります。忘れるべきことを忘れ、忘れてはならない美しい記憶と思ひ出のみ残し、死を迎へたいものです。
そのやうなことを考へてゐるうちに、トロッコ嵐山駅に着きました。
紛らはしいのですが、ここは終点ではありません。ここで、かなりの人が降りて行きました。空席がたくさんでき、目の前の家族も別の席に移りました。
四条大宮駅へ
終点のトロッコ嵯峨駅に着き、二十六分の短い旅が終はりました。嵯峨野観光電鉄、完乗です。
駅には千日回峰行を成し遂げた酒井雄哉阿闍梨の書がありました。
二宮尊徳像やさざれ石もあり、良い駅です。
トロッコ嵯峨駅から歩いて阪急の嵐山駅に向かひます。曇り空が晴れて、気持ちが良いです。
天龍寺?知りません。素通りします。
嵐電嵐山駅は、外国人でごつた返してゐます。
列車が接近してきた時の放送が倉木麻衣といふ…胸熱ですが、かつて乗つてゐるので、けふは素通りします。
寄り道して、みっふぃー桜きっちんに行きました。
私は福音館にならひ「うさこちやん」派です。このお店、危険です。
散財してしまひさうです。友人にお土産を買ふ程度にとどめました。
四十歳を過ぎて初めて渡月橋を渡りましたが、これは不可抗力です。
ちんぺーさんの歌を思ひ出します。
当然ですが、渡月橋は「からくれなゐ」に染まつてゐません。
嵐山といへば、前にこちらにも書きました。併せてお読みいただけたら幸甚です。
阪急嵐山駅から、阪急に乗ります。
来た列車のヘッドマークが、なんか小さくてかわいいやつでした!
恐るべし、阪急。
列車はゆつくりと発車し、徐々に加速して行きました。次は松尾大社駅ですが、当然素通りいたします。駅前には、朱塗りの立派な鳥居がありました。
住宅街の中を列車は駆け抜けて行き、上桂駅を経て桂駅に着きました。
次は、京都河原町駅へ向かひ、折り返して大宮駅へ行きます。
京都河原町駅に着きました。
列車の中で、出発を待つてゐたら、支那人旅行者から、
「えくすきゅうずみぃ、(この列車)うめだ?」
と声をかけられました。私が乗つてゐるのは準急、手前のホームには間もなく特急が来ます。向かうのホームを指差しながら、
「あつちの方が早いヨ」
と教へてあげたら、合掌してくれて、
「謝謝」
と言はれました。この人ら、いはゆる処理水とか気にしてなささうです。なほ、私、英語はサツパリわかりません。
ちなみに、特急の方が十五分早く梅田駅に着きます。
大宮駅に着きました。四条大宮駅へ歩いて行きます。マア、すぐですが。
嵐電
ここから、嵐電に乗り帷子ノ辻駅まで行きます。
西院駅には嵐電の車庫がありました。
西大路三条駅を出ると、路面を走ります。
途中、広隆寺は秦河勝の建立といはれてゐます。
数名の人が降りて行きます。
国宝の弥勒菩薩像は、カール・ヤスパースをして、
「人間のもつとも美しく、気高い姿」
を表現したものと言はせたとか。しかもその続きがあり、
「この姿は罪を得た人でしか、到達し得ない」
と。
ヤスパースが言つたかどうか、真偽はわかりませんが、示唆に富んでゐます。少なくとも、このお話に救はれた人もゐるでせう。広隆寺は、過去に訪ねてゐるので素通りいたします。
上の出典は、行徳哲男さんです。
なほ、私は仏像などまつたく興味もないし、拝むつもりもありませんが、中宮寺の半跏思惟像には感服します。
帷子ノ辻駅到着。ここから、北野白梅町駅へ行きます。
最初の停車駅、撮影所前駅に来ると、なぜかアラカン(嵐寛寿郎)を連想しました。
「鞍馬天狗」は観てゐませんが、「明治天皇と日露大戦争」は超名作です。幼少の頃から亡き父と観てゐました。意味がわかるやうにまつてからは、涙なくては観られません。
明治天皇を演ずるアラカンを見て合掌する老人がゐたとか、教科書に載つてゐる明治天皇の御真影を「アラカンだ」と言つた少年がゐたとか、逸話もすごいです。
鳴滝駅から宇多野駅まで、桜並木が続く素敵な区間です。倉木麻衣の歌が思ひ出されます。
さらに仁和寺、妙心寺、龍安寺といふ寺の名が続きますが、すべて素通りです。
終点の北野白梅町駅に着きました。今度は、バスで西大路御池駅に向かひます。
寄り道と軽いパニック
京都のバスは混雑してゐるので苦手です。十分程度で、西大路御池駅に着きました。ここから京都市営地下鉄に乗り、六地蔵駅を目指します。が、実は途中下車します。降りる駅は、東山駅です。
東山駅から地上に出て、しばらく歩くと……一澤信三郎帆布の本店に着きました。
みっふぃー桜きっちん並に危険なお店です。散々、冷やした挙句、何も買はずお店を後にしました。欲しいものがあり過ぎて困ります。
勇気を出して撤退しました。
マア、私の背中には信三郎帆布のリュックがゐますし(実は後日、ネットで注文しましたが…)。
東山駅に戻り、再び地下鉄に乗ります。
十三時十二分。そろそろお腹も空きました。実は朝からバナナ一本とウェハース一つしか食べてゐません。
六地蔵駅に着きました。今度は、京阪に乗り宇治駅まで行きます。
平等院?知りません。十円玉に描いてあります。
地下鉄の駅から少し歩き、京阪の六地蔵駅まで来ました。ここは、地下鉄、JR、京阪がそれぞれ別にあり紛らわしいです。
そして実は、このとき。ひたすら『時刻表』を見て後々の計画を立ててゐたので、状況を書けません。といふのも、けふの予定では、叡山電鉄に乗り、さらに滋賀県の京阪に乗つてから、近江鉄道を完乗する予定でした。それにも関わらず、嵯峨野観光電鉄以外の時刻を調べてをらず、
「隣の県だし余裕余裕」
と思つてゐました。実は、まともに『時刻表』を開いたのは六地蔵駅に着く手前でした。
すると…近江鉄道の乗車が厳しい。頭の中で予定してゐたことが崩れ、玉川、軽いパニック状態になりました。その証拠に、写真がここのあたりだけ見事に抜けてゐます。
仕方がないので、近江鉄道は諦めることにしました。悔しい。しかし、後日必ず乗ります。
京阪に戻りませう。まだパニック状態の私は、六地蔵駅の次の木幡駅で、『万葉集』にある天智天皇の御病気の際に奉られた、
青旗の 木幡の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも(巻二・一四八)
を思ひ出す余裕すらありませんでした。
宇治駅から折り返して中書島駅に戻ります。さらに丹波橋駅で近鉄に乗り換へ、竹田駅から地下鉄に乗り換へます。
興味深い駅名が続きましたが、玉川の関心はそこにはありませんでした。
さて、このときに『時刻表』とにらめつこしてゐて感じたことを正直に書きますと…
一、近江鉄道に乗る前から嫌ひなつた。
二、京阪も嫌ひなつた。
三、総じて関西の鉄道は色々と紛らはしいのが多くて困る(たとへば梅田とか上記の六地蔵とか)。
四、それでも、近鉄は好き。
関西の読者の方には申し訳ありませんが、これが関東人である私の率直な感想です。
叡山電鉄
国際会館前駅に着き、京都市営地下鉄を完乗しました。ここから少し歩いて、叡山電鉄の岩倉駅まで歩きます。
次は叡山電鉄を乗り潰します。
無事に岩倉駅に着きました。
十五時二十八分、岩倉駅に素敵な車両がやつてきました。
木野駅を通り、次の京都精華大前駅ですが、この大学に私が教へてゐた子が入学したことを思ひ出しました。彼は元気でせうか。
さらに次の二軒茶屋駅は、京都産業大学の最寄り駅です。京産大といへば、所功さんのやうな優れた先生がをられました。
なかなか良い立地のやうに感じました。さういへば、京産大の学生が、
「通学の時、いつも観光客で混むから困ります」
とボヤいてゐました。
市原駅のあたりから、車窓の緑が色濃くなつてきました。次の二ノ瀬駅までの景色はまさに紅葉のトンネルです。
心が洗はれます。黄葉してゐたら、相当に美しいことでせう。
二ノ瀬駅で上り列車と交換しました。
貴船口駅は貴船神社の最寄りです。夜中の三時に、藁人形を持つて通ふことは私はしませんが、たまにさういふ人がゐると聞いたことがあります。この駅で多くの人が降りて行きました。藁人形を持つてゐさうな人はさすがにゐません。しかし、人は誰しも心に闇を抱へてゐるものです。
景色が山深くなり、終点の鞍馬駅につきました。
すぐに折り返して、今度は八瀬比叡山口駅を目指します。
帰りは案の定、貴船口駅で混み出しました。
宝ケ池駅で乗り換へます。
次の三宅八幡駅を経てすぐに八瀬比叡山口駅に着きました。
車両が素敵で、かつ座席がフカフカです。
滋賀県の京阪
折り返して出町柳駅に行きます。出町柳駅から京阪に乗り、三条で地下鉄に乗り換へます。
そして、びわ湖浜大津駅行きに乗ります。御陵駅で、京阪京津線に入ります。みささぎと、大和言葉で読ませるのが良いですね。御陵とは、天智天皇の山科御陵です。参拝したいのですが、素通りします。
地上に出ると、日が暮れかかつてゐました。十七時十分に京阪山科駅に到着。しばらく住宅街の中を走ります。各駅で乗り降りがありました。追分駅のあたりから景色に木々が目立つやうになりました。そして、大谷駅、上安町駅を経て路面を走り、ちらりと琵琶湖が見えたと思つたら、びわ湖浜大津駅に着きました。
さて、ここからですが、私は比叡山坂本駅方面ににまづ向かひます。
最初の停車駅は三井寺駅です。三井寺とは園城寺のことで、天皇陛下の産湯を汲む御井からきてゐます。長きにわたり、山門派(延暦寺)と寺門派に分かれ対立しました。もちろん素通りします。
次の大津市役所前駅を経て、かつての都の跡、京阪大津京駅に来ました。いふまでもなく、天智天皇の都ですが、かつて一度訪ねてゐます。その次の近江神宮前駅は、近江神宮の最寄り駅です。天智天皇をお祀りしてゐます。いふまでもなく、素通りします。
天智天皇につきましては、平泉澄先生に『天智天皇の御聖徳』があります。錦正社から出てゐる『平泉澄博士神道論抄』に収められてゐます。
地図で見ると、南滋賀駅と穴太駅の間に唐崎駅があります。唐崎は、かつて『万葉集』に詠まれました。
さざなみの 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ (『万葉集』巻一・三〇)
柿本人麻呂の近江の荒れし都を偲んで作つた歌です。
穴太駅に着く直前、列車は高度を上げ、琵琶湖を見下ろすやうになります。唐崎はどこだらうと思ひながら車窓を眺めてゐました。
琵琶湖の景色は、おだやかで、静かで、落ち着きます。
その琵琶湖を眺めながら、松ノ馬場駅を経て坂本比叡山口駅に着きました。
ホームから湖畔が見えます。
石山ともかがゐました。
ところで、比叡山延暦寺といへば天台宗です。
その天台宗では「一隅を照らす運動」といふものをしてゐます。
私は、最澄の『山家学生式』に書かれた、
「国宝何物 宝道心也 有道心人 名為国宝 故古人言 径寸十枚 非是国宝 照于一隅 此則国宝(国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人ののたまはく、径寸十枚これ国宝にあらず、一隅を照らす、これすなはち国宝なりと)」
この一節が好きです。ちりひじの数にもあらぬ自分が、けふまで生きて来られたのは、この教へがありました。「一隅を照らす」、それは靴を揃へることもさうです、ささやかなことの積み重ねと繰り返しなのです。
しかるに、この「照于一隅」を「照千一隅」と解釈した学者がをり、一部の気狂ひ者が従つてゐます。このことは、当時、皇學館大学の教授であつた野口恒樹先生が書かれてゐます(年の為、「照千一隅」が正しいといふのならば、野口恒樹先生の主張を論破してみてください。その上で玉川にお知らせください。面倒な絡みに対しては「てめえなあほが多いから日本だめになる!!」とあらかじめ言つておきます)。
ここから折り返して、石山寺駅方面に向かひます。びわ湖浜大津駅から未乗区間です。
膳所といふ関東人に馴染みのない地名が出てきます。「ぜぜ」と読みます。
私が注目してゐるのは、終点の手前にある唐橋前駅です。平安時代から歌枕として知られてゐる、瀬田の長橋です。しかし、当然のことながら素通りです。それに、外は日が暮れてしまひ暗くなつてよくわかりません。
石山寺駅に着きました。
石山寺は、聖武天皇の勅により、良弁が建立しました。
いふまでもなく素通りします。
滋賀県内の京阪の路線を乗り潰しました。これから京阪石山駅に戻り、石山駅から新快速で米原駅まで行き、新幹線で自宅に、否、名古屋駅に向かひます。残念ながら、旅はまだまだ続きます。
次回は、東海編をお届けいたします。どうかお楽しみに。最後までお読みいただき、ありがたうございました。(続)
宣伝になり恐縮ですが、日本学協会発行の「日本」誌に「万葉集古義に学ぶ 十二」を書かせていただきました。三年にわたり載せていただいた内容の集大成、どうかお手に取つていただけたら幸甚です。