家族と行事、年末の希望/父との記録日記DAY4
大晦日。
友人とぜんざいを食べながら来年の話にきゃいきゃいと花を咲かせている時に、父のケータイから着信があった。
父がICUにいる間は母がケータイを持っていたと思うので、なんでここから鳴るんだろう?と一瞬混乱したけど、出たら父本人だった。
「カナちゃん、ICU出るよ、個室に行けるようになった。みんなにお礼の電話をしとる。」
めっちゃ元気な声。
そうか、スマホも見れるようになったのか、回復の凄さよ。。
うんうん、もう完全に個室に行けると思ってたよ、なんなら退院しそうな勢いだったもんね。
これで家族みんな安心して年が越せるね、と話した。
「死の淵を彷徨ったんやもんなぁ、さすがに退院はできんわ。」
と、父は笑っていた。
前回の、面会時間に推しの話をされかけた話↓
実家は伝統的な行事を割ときちんとする家だった。
例えば年末年始。
大晦日の夜は焼いたメザシ、揚げや根菜などの煮物、年越しそばを母が用意してくれて、紅白を見ながらみんなで食べたものだった。
メザシは苦くてあまり好きじゃなかったし、煮物は田舎くさいと思っていたけれど、普段の煮物には入っていない糸昆布が、年が明けるおめでたい雰囲気を少しだけ醸し出しているようで好きだった。
除夜の鐘がなったら、寒い中近所の神社に初詣。
幼い私は、夜中まで起きていられるワクワクと、でも寒すぎて外に出たくないめんどくささと、いつもその間で揺れていた。
真っ暗な神社で、煌々と焚かれる焚き火の赤い光とチリチリと舞う火の粉が、スルメや日本酒を配り合う大人たちを照らしていた。その陰影の強さが印象的で、いつか自分も大人の仲間入りをするんだろうな、と思っていた。
夜中の初詣はいつの間にか行かなくなってしまったけれど、ピンと張り詰めるキリリとした硬い空気が、ざらりと頬にあたる感触だけはずっと残っている。
そしてお正月。
親戚中が集まって、すき焼きやお鍋や、母が作った美味しいおせちや餅や…そんなものを一日中食べて寝て喋ってゴロゴロしていた。
正しい日本のお正月って感じがした。
年末年始だけじゃない。
節分はちゃんと豆を撒いて、年の数だけ豆を食べた。
「おばあちゃんは60個も食べれんわ〜」「6個でいいんやない?」なんて言いながら、やいのやいのやってた記憶がある。
3月は7段の立派なお雛様を飾り、母がちらし寿司を作ってくれた。
5月は五月人形を飾ってちまきを食べた。
七夕にはでかい笹を父が切ってきて、願い事を書いて庭先に飾った。
お盆は仏壇の周りを本提灯や精霊馬、豪華なお供えで飾り、迎え火を焚き、精霊流しもした。
9月はお月見。萩やススキや里芋などを軒先に飾り、祖母がお団子を丸めて積むのを手伝ったりした。
七草粥食べたり、冬至にかぼちゃ食べたり、柚子湯に入ったり、そういうちょっとしたこともあったなあ、と、思い出す。
結婚した今、我が家には何も行事がない。
夫がそういうことにまるで興味がないし、私自身も面倒なことは苦手なので、何気なくすぎていくことが増えた。
でも、それにしても大晦日やお正月くらいはなんとなく気持ちがソワソワするもので。
良いお年を、とか言いながら誰かと挨拶するのも好きだし。
結婚当初は大掃除も頑張ってやっていたし、お餅も食べたくなるし、実家のおせちが食べれない時は好きなレストランから取り寄せたりもした。
でもなんだか1人で張り切ってても仕方ないな、と思う感じもあり、もうだいぶ前から大掃除もしなくなったし、食事も割と普通。
環境によって、気分も行動も変わるなぁ、と思う。
家族で行事を楽しむ家だったら、何も疑問もなく楽しめたかもしれない。
けれど、周りにそういう人がいない環境にいると、どっちでも良くなる。
日常の中の1日として消化されていく。
夫のせいでちょっと寂しいとも言えるけど、夫のおかげでそこから解放されたとも言える。
ただやっぱり何もないのも寂しくて、年末年始はなんとなく年越しそばを作ってみたり、お正月飾りを作ってみたり、紅白を見てみたりしているのが私。
実家に行ったら何か美味しいもの食べれそう、と、期待もしている。
どっちが良いとかはないんだけど、行事的なことをやりたいなら自分でやれる環境の今、めんどくさがってたいして何もやらない私が寂しいなと思うのは、その行事に関する食事や飾りなどの行為ではなく、そこに家族がいてワイワイしている時間、そのもののことを思い出しているからだろう。
おそらく行事そのものはきっかけにすぎなかったのだ。
なんの話だっけ…。
そうそう。
年末年始は家族で過ごすのが当たり前の家だったなぁ、と。
思い出した。
結婚してからもみんなで集まっているし、父と母はいつも家に必ずいた。
今年は父が家にいない。
少し前にみんなでホテルに泊まった時。
みんなで泊まりたい!と言った父がちゃんと今回泊まれたように、父のやりたいことを聞いて、叶えていってあげれたらいいのかもな〜と、ぼんやり思っていた。
何か食べたいものがあるのか、行きたい場所があるのか、やっておきたいこと、伝えておきたいことがあるのか…。
「これから何かやりたいことある?」と聞くと、父は「歩きたい」と言った。
車椅子に酸素吸引、何かに繋がれている不自由な父。
その時は、まだこんなふうに一時意識を失うとか思ってなかったし、過去のいろんなことが積み重なっていた私の気持ちとしては(いやいやいや、なんの努力もしてなかったやん?可哀想だとは思うけど、せつなげに言われても病気になって尚、タバコやお酒をやめずに食事にも気を使わず運動もしなかったのは自分やん?同情はしないぞ?!)と思う気持ちは少なからずあった。
でも同時に、まぁそんなことを言っても仕方ない。
もう私は受け入れるのだ、父を、とも思っていた。
自分でやりたいことを聞いておいてイラつくとはどういうことだ、私。
そもそもどんな答えを期待してたのだ。
よーく考えてみると、父は単に歩きたい、というよりも、戻りたい、と思ったのかな、と、感じた。
そこには少しの後悔と、もうその運命を受け入れている諦めも滲み出ているような気がした。
父の中にあまり「やりたいこと」はないのかもしれない。
歴史や政治に関して考えるのは好きみたいだけど、元々趣味もないし、未来に向けて新しいことをやりたがるタイプではなかった気がする。
自分が自由に動けて、家族で過ごしている時間を取り戻したい。
それはもうかなり昔の記憶を辿っている幻想みたいなものかもしれないけど、記憶を思い出した上での「歩きたい」だった気もする。
それこそ、年末年始にみんなが集まる我が家の思い出。
まぁ、父じゃないのでわからないけど。
大晦日。
さすがに退院はできないけど、電話の向こうの父はなんだか楽しそうだった。
復活してきて、いろんな管に繋がれていたものから少し解放され、自分らしい振る舞いをできるようになってきたような感じだった。
数日前までは年を越せると思わなかった父の元気な声。
「良いお年を!また来年もよろしくね!」
といって、短い電話を切った。
またすぐに、会いにいける。
2023年12月31日
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