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橙の少女

 その少女は頭の上にある大きな耳を力一杯立たせて、周囲の喧騒を聞いている。
 僕の隣で何も言わずに、静かに耳をそばだてて、見たこともない街を見聞きし、時には驚くそぶりを見せる。
「ふふっ、何か聞こえたかい?」
 不思議と僕の言った言葉は意味が通じるようだ。妖狐であるこの少女は、人々の生活を初めて見るというのに、言葉の壁は感じない。だが、少女は言葉を発しない。時折ジェスチャーで伝えるのみだ。舌がないわけではなく、声を発することがわからないのだろう。とにかく、僕の質問にコクっと頷いた。
 何が聞こえたかはわからなかったが、やはり動物の耳だ。遠くの何かを聞き取ったのだろう。
「それじゃあ、僕は戻るよ。おにぎりでも食べてね」
 リュックからおにぎりを数個取り出し、神社に備えられている石机に置いた。
 相変わらずおにぎりに目もくれず、少女は街の喧騒を見つめている。

 太陽が高く昇った頃、僕はまた小さな神社に赴いた。
 やはりというか、妖狐の少女は石机の上に座り、周囲を観察している。
 いつからここにいたのか、この少女は何者なのか。そして僕はなぜこの少女が気になるのか。それはわからない。わからなくても良いとさえ思っている。
 いつの間にかこんな生活が続いていた。朝は僕がおにぎりを握ってこの神社に訪れ、石机に置いて去り、大学の用事を済ませると、時間が空けばまたこの神社に来て、夜も時間があれば一緒に過ごす。それを繰り返していた。一人暮らしだから誰かが咎めることもない。
 僕は何かと、物寂しげに、でも興味津々に街を見続けるこの少女が、何かとても神々しくて、見守り続ける女神にさえ思っていたのかもしれない。そしてあわよくば、仲良くなれるのでは、と。

 太陽が橙色に染まり、街にも色が移り始めた。
 少女は夕日と同じ色の小さな粒を一つ摘んで、陽にかざし、大きな目で見つめていた。
「あ、狐の小判!」
 少女は僕の声に驚いて振り向く。
「あ、ごめん……。その、君の持ってる粒なんだけど、人間は『狐の小判』なんて言って集めるんだ。でも、確か別名もあったな。『猫の小判』『カラスの小判』なんてのもあるらしいよ。子供の頃、100個集めれば願いが叶うなんて言って集めてたけど、集め終わる前に大人になっちゃって、こういうのは知らずのうちにやめちゃうんだよね。集められないだろうし、願いなんて叶わないしね。なんと言っても汚いから」
 少女の表情に翳りが差す。
 『狐の小判』を自身に置き換えたのか、僕の最後の言葉に傷ついたのだろうか。そうだとしたらとんでもなく酷いやつだ。
「ち、違うよ! 君が汚いわけじゃないんだ。お、大人になるとね、子供の頃の感性は消えてしまうんだ。何もかもが……その、違うものに見えるんだ」
 僕が言っていることは正しいのかわからないが、弁明したい気持ちが前のめりになる。そう、少女は汚くない。汚いのは大人になった人間だ。
 すると、妖狐の少女は石机の上に立ち、両手を広げる。
「え?」
 瞬間、妖狐の手から橙色の粒が零れ落ちる。100個、1000個、いや、もっとあるだろうか。溢れんばかりに増えていく。
 それが山になったところで妖狐は問うように、首を傾げる。その黄金色の瞳は僕を捉えて離さない。
 何が言いたいのだろう。
 初めてこういうのを目の当たりにした。狐の小判をこうやって見るのは初めてだし、妖狐がこうして見せたのも初めてだ。
 僕は橙色の山の前に立ち、半ば半信半疑で願いをかける。
「妖狐の少女に声を与えて」
 すると、山の中からいくつかの粒が光り始める。ゆっくりと溶けるように消えると、妖狐は口を開けて一言発する。
「あ……」
 意外にも声は高く、湿り気のある声だ。心地よい声でついうっとりしてしまう。
「ありがとう、人間の子よ……。我はもう直ぐ消え去るところじゃった」
 どういうことだか、声が出ない。まさか……。
「『狐の小判』か。近からずも遠からずじゃな。これが『猫』とも『烏』とも云われとるのか。なんとも腹立たしい」
 少女にしては大人びた声でもある。凛とした佇まいも声も目を離せない。
「じゃが、この小判がなければ願いが集められん。……そうか、大人になると忘れ去られるのか……。願いがなければ我は無用になる……。そなたのおかげじゃぞ、生き永らえたのは。じゃが、願いは無償で得るものではないぞよ。それ相応の代価が必要じゃ」
 自身の声が出ないのもそれのせいか……。
「あまり驚いておらんようじゃの。さすが、何も聞かずに我と共に過ごすだけのことはある。じゃが、その状態でどうする。人間の生活には適応しづらいじゃろ。……そうじゃ、こうしよう。そなたを妖狐にし、我と共にいつも通り過ごすんじゃ。そなたにとっても悪かないじゃろ」
 妖狐は両手を一振りすると、僕の体が一瞬で縮んでしまう。慌てて自身の体を見ると毛だらけで、耳が頭の上にあり、尻尾まで生えていた。見るからに狐だ。
「妖狐どころか普通の狐じゃな。まあ良い。これからは我が握り飯を作ってやろう。何が良いかえ? 梅干しか?」
 妖艶に微笑む黄金色の瞳は夜を照らす満月と重なって、僕を虜にした。

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